タイピング脳の境地

 今朝から私は人の手助けとして老医師が筆記されました手書き原稿をタイピングする作業をして居るのですが、ただのタイピングならば存外楽な作業かと思われる方もおられると思いますが、何せ「文章構成、誤字・誤用・用語統一等は元原ママ」なる御指示を頂いているものでありますから、私の様な者にも一目で判る様なミスから幾らかの経験と国語力を基にした誤字の発見にまで目を瞑らなければいけない事となりますと、これがなかなか艱難辛苦の作業に成る事を御理解頂きたいと存じます。尚「明らかな誤字等であれば平打ちの段階で直せばいいのではないか」と思われる方もあるかも知れませんが、元の文章に又私の修正が入ったところで最終的に手直しされる方の手に渡っては樣々な不統一が為されることもあるので最終的に一編になされるのがよいとの考えでしょう。
 初めの内は誤字等よりもセンテンスの扱いに生理的な違和感を感じ「何故此処で句点を打たぬのか」などと声にならぬ声を漏らすばかりであり他人の思考の反映たる文章をひたすらに只そのままに打つ事の苦行であり、重なった原稿の高さに辟易するばかりなのですが、原稿が五・六枚(二千字程)に進みますと、ATOKの用字も元原に馴らされ段々とセンテンスという概念が頭から消え行き、認識するのは数文字毎の文字列と成ってくるから不思議なものです。そうなると主語と述語の関係も助詞が不可解な事であるとことが認識すらされず私は目から手へのみの存在と成って元の文章を書いた医師の思考と同一の存在となって無意識の箇所に記述された内臓や血流についての智慧が刻み込まれていく旨を知ったこととなりました。
 良く「詰め込み教育は良くない」などと仰る方がおられる様ですが、物事の真の理解には書き手との同一化が何より必要であり写経であるとかいう先人の知恵を見直しよりよく教育が良くなる方法を考えていく必要があるように思われます。