『聖書物語 旧約篇』パール・バック/刈田元司訳

goldhead2005-08-03

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 さて、バイブルを読んだ人ならだれでも知っているように、話の種として、詩と散文、歌と哀歌、愛と死、罪と罰を多く集めたこの大きな本にまさるものはない。

 私はキリスト者ではないので、新約および旧約聖書にあたるのは「話の種を理解するためにおさえておこう」という意図によるものである。そして、幸いにして新約聖書はロハで入手できた。しかし、旧約はうまく入手できず、買い求めようにもタラントンが足らんという(天地創造以来最高の駄洒落)わけで、仕方なく「物語」を選んだのである。私はディティールに宿る神は信じているので、本来ならきちんとした訳書を手に入れたかったことは確かである。しかし、『大地』のパール・バックならば概略を知るのに何が問題あろう。言っておくが、私は『大地』を読んだことはない。
 さて、ざっと旧約世界を読み通した感想を書く。敬虔な信仰者が目を通したらお怒りになられるであろうことをはじめに宣言しておく。
 旧約の神は‘怒れる神’と言われる。しかし、私がこの本を読んだ感想では「怒りっぽい」「荒れ気味」の神であった。そして私が、その神の姿に重ねたのは、決して上手ではないゲーム・プレイヤーである。『シムシティ』『アクトレイザー』『ポピュラス』(たとえが古いかな)といったゲームをプレイする神だ。コントロールすべき主人公キャラは時にうまく操作できず、民衆に至っては甘やかせばつけあがり、厳しくすれば忠誠度が下がって主人公に不平不満といったありさま。神はそれに対して「スラム化しやがって、空き地にしてやる」、「疫病コマンドで粛清」、「こいつIP晒してアク禁」といった具合で対処(最後のはゲーム違うか)するわけだ。これでは旧約の神を‘偽りの神’とする異端が出てくるのもむべなるかな、といったところ。ディック晩年の作品を読み返してみようか。
 ゲームついでに言えば、言うまでもなくさすがに聖書は後世の物語、そして今現在のアニメ・ゲーム・マンガに実に大きな影響を与えている。私たちはどれだけのダビデゴリアテを現代の作品に見つけられるだろう。独創性というより普遍性、なのか。サウルについて書かれた箇所など、私の頭の中では横山光輝の絵柄で再生されていたが、全く違和感は無かった。ダビデ孔明で、サウルが孟獲? いや、南蛮王はどうでもよろしい。
 というわけで、旧約世界はざっと眺めさせてもらった。新約世界に比べて、実に人間くさく、血なまぐさく(力任せ、戦争任せがなんと多いか)、なかなかに魅力あるものであった。とりあえず次は、読みさしになっている新約の方を片づけるか。あるいは、もう一度最初から読み直してもいいか。ともかく聖書というやつが、なかなかに飽きさせないものであるのは間違いない。そうじゃなきゃ、こんなに古いものが今の今まで残るわけもない。
 そして最後に再び乞う、信仰篤き人の寛恕。