『殺人は面白い』田村隆一

ISBN:4195993059

 探偵小説、あるいは推理小説は、ユーモアのセンスとウィットの知的活性で味つけされた御馳走(エンターテインメント)である。……
 この本はぼくの「舌」で書いた、探偵小説という味の店のガイドブックである。

 このところのご時世じゃ「殺人は面白い」なんて言ったら叱られそうだけど、この本の副題は<僕のミステリ・マップ>なのだからご安心を。決して自殺サイトで獲物を狙う快楽殺人者の話ではありません。
 「ミステリ」、「探偵小説」、「推理小説」。これは僕にとっての一つの課題というか、ジャンル一つどこからどうしようという存在なのだ。「SF」というジャンルに抱く気持ちにも似たようなものがある。どこから入ればいいのか、どのあたりをおさえればいいのか、ちょっと複雑で大きすぎる山なのだ。
 とはいえ、まったく読んだことがないわけじゃない。いわゆる三大ミステリ奇書『ドグラマグラ』、『黒死館の殺人』、『虚無への供物』は読んでるし、一時期なんて綾辻行人の‘館シリーズ’にはまっていたことだってある。ただ、どこかでリンクが切れてしまって(三大奇書の方はそういう存在かも知れないが)、うまいことミステリー畑を耕すことができなかったのだ。そこで、こういう頼りになるガイド・ブックを読んでみたわけだ。いや、ミスター田村の本なら何でも読みたいところだけれどね。
 この本では、戦後のごたごたの中でミスター田村が早川書房でミステリをやるあたりの、日本翻訳ミステリ史と、ポーに始まる海外ミステリ史が紹介されている。特に後者は、作家ごとに経歴や作品の傾向を説明してくれてわかりやすい。もちろん、犯人の口を滑らしたりはしないしね。さあ、僕はどのミステリからいただこうか、というわけさ。
 ……なのだけれど、それが難しい。コナン・ドイルや(シャーロック・ホームズ)や、アガサ・クリスティエラリー・クイーンと並ばれてしまうと、どこぞの連峰かという風な具合に感じる。「まとめてそのうち」とスルーしたくなってしまう。うーん、困った。だいたい、多くの作家に多くの小説が紹介されていながら、僕が読んだやつといえば、ロアルド・ダールを別にして『ウインター殺人事件』(ヴァン・ダイン)一冊だものな。そうだ、この本の巻末に「ミステリ二十則」が入っていたか。とすると、あえてこれ一冊選んだのだっけ、よく覚えていないや。
 そう、選んだのだ、我が家の本棚から。実家にはアホみたいな量の本があったが、海外ミステリーは祖母のテリトリーだった。おそらく、この本に紹介されている作家のほとんどの本があったと言い切っていいだろう。そこに並ぶ古い本の量を目の当たりにして、僕はミステリー世界に尻込みしている面もありそうだ。それら本は家とともに失われたはず。これではますます買い直すのもばかばかしいと思わなくもない。
 そうそう、その祖母だけれど、こないだ母から聞いた話。なんでも今祖母が住んでいるアパートの下の階に、引っ越ししてきた人がいるという。それで、あいさつに来たのは見上げるような背の高さの黒人。祖母が英語のあいさつをしようとした機先を制し、フランスから来たので英語はわかりませんと自己紹介したそうだ。どうです、これ。ミステリー好きの老婆が安楽椅子探偵で、パートナーはフランスから来た黒人の大男。なにか周りで殺人事件でも起きてくれたら、祖母も喜びそうなものですが。
 それはそうと、僕はまたミステリの入口にとまどってしまった。唯一確実に読むだろうと思ったのはダシール・ハメットジェイムズ・エルロイが敬服していると、『ハリウッド・ノクターン』の訳者あとがきにもあったしね。しかし、血と暴力ではやはり自殺サイトの猟奇男に近づいてしまったということなのかもしれないな。