『完本 妖星伝』〈2〉〈3〉/半村良

完本 妖星伝〈2〉神道の巻・黄道の巻 (ノン・ポシェット)完本妖星伝〈3〉終巻 天道の巻・人道の巻・魔道の巻 (ノン・ポシェット)
 ついに読み切ってしまった『妖星伝』、いや、読めども読み切れるといえるのかどうか、この奇書は。「生命はなぜほかの生命を奪ってのみ生きざるをえないのか」、そして「人間の自由意思とは何か」と、第一巻でその大きな問いが突きつけられたが、さらにそればかりでは終わらん。あまりつまびらかにするわけにはいかんが、全宇宙を相手にした小説である。俺はもっと早くこの小説に出会っていたら……と思う一方、空海についての本や、鈴木大拙の『日本的霊性』その他の仏教本、「般若心経」のちょっとした知識、あるいはハードSF類、そういったものを読んだ後であったのもまた定めという気もする(最近のことで言えば、『星を継ぐ者』でハードSFにキャーキャー言って、関係なくギャルゲーから伝奇に引き寄せられてこれなのだから、なんか面白い)。そして、もし千や二千、五千、一万の小説を読んだ人が居て、その人が「一番面白かったのは『妖星伝』だ」と言っても、俺は驚かない。
 いくらこの驚異を伝えようとも伝えきれないので、一点だけ。この本では数多くの性交が出てきて性交だらけとも言えるわけだけれど、俺がつねづね「なぜ生命は他の生命を奪ってしか生きられないのか」と思い悩むのと同じくらいの悩みについて、ある種大きな意味を伴って出てきたのである。それは、「なぜ女はセックスのとき気持ちよくなっちゃうと、どっか遠くに行ってしまうのか。これ以上なく近づいているはずなのに、門を閉ざして俺を置いてきぼりにするのか」ということだ。これに対する小説内の答えについては、あるのか、ないのか、少なくとも作者の実感に基づいてる、彼のさまざまの大きな問題にかかわる一事であることは確かだろう。最終巻末の、清水義範との対談でも「必然性があるんだから」と言っている、性交だらけの件についても、まさにそうだ。そして、文句なくエロいぞ。
 ところで、その対談の中でこんな発言が出てきた。

私自身が春が嫌いなんですよ。子供のときから。何が新入学とか、お花見とか、疎外感があるんだよね。みんな陽気にしやがってなんて(笑)。そのころからの影響だね、いま考えてみると。だから春が嫌いだったね。冬になって、ポケットに手を突っ込んで、コートの襟立てて一人でポコポコ歩いていると、何となく張り合いがあるんだよね、おれの季節だって感じがして(笑)。生命過多っていうのは……SFをやってからそう思ったけれども、何か花咲き、鳥さえずりなんていうと、いやらしいなと。

 おお、おお、俺も「春が嫌い」というだけで春の一つや二つ過ごしきれる人間だ(梅にメジロ、春のギロチン)。どっかしら根っこのところで、SFにはそういうところがあるのだろうか? その疎外感の先に想像力が咲くのだろうか。寂光と終末を夢見がちになるのだろうか。そして、そういう人間が少なからずいるということは、まんざら世の中捨てたもんじゃあないかもしれない。
 いやはやしかし、なんとも、これぞ日本のSFであった。SF初心者の俺は、国産SFがどのあたりにあるのかわからなかったが、ここにあった。SFど真ん中。カート・ヴォネガットのあれとこれ、それにアーサー・C・クラーク卿のあれなんかも全部ぶっ込んであって、それでいて、一気にハードSFのあれっぽいところに突き抜けつつ、生命そのものと時間/空間について考えることをやめず、さらに士農工商身分制度から一揆の内側まで一気通貫、まあ、とにかく、これだけのものを、ひとまとめにして、提出できる作家という存在は、ともかくうらやましいと思うのであった。
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