『曼陀羅の人 空海求法伝』陳舜臣

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著者あとがきより

 書いているあいだ、私は自分の心を空海に近づけている気がして、法悦のごときものを感じた。

 俺は松岡正剛空海の夢』を、何らの予備知識すら無しに読んでしまった。だから、その著の冒頭でポケットに入れられてしまった空海の両眼からの眺め、あるいは人間空海の眺めを何かで抑える必要があった。はじめは司馬遼太郎空海の風景』かと思ったが、古本で求めやすかったこちらを優先した。陳舜臣の小説を読むのは初めてであった。面白かったので、先週末一気に読んでしまった。
 この本は空海の入唐に焦点をあてた小説だ。使船の到着から始まり、帰りの海で話は終わる。『空海の夢』の第9章(id:goldhead:20050813#p3)で俺が興味を持った、当時の唐の話を存分に楽しめる。俺は中国古典というと三国志水滸伝少々といった具合(横山光輝だけというわけではないけれど)だが、これまた当時の情勢からさまざまな官僚から詩人、そしてかつての安史の乱に纏わる話まで込みあって、そこらへんが歴史小説らしいなぁとか思ったものだ。歴史小説らしい歴史小説を読むのはいつ以来だろう? そういった人々から市井の人々のあり方までが絡まっていき、空海曼陀羅を形作っていく。ちょっとパスタとソースの絡み具合がいまいちという気がしないでもなかったが、それでも美味しかった。
 もちろん、パスタである空海のキャラ造形も素敵だ。まるで少年漫画の主人公(力を秘めたタイプ)が、冒険の旅をするようなストーリーにも読める。駆使するのは腕力ではなく、その底知れぬ言葉の力であり、筆の力であり、知識の力。そして、霊力に人間性ときているわけだ。橘逸勢とのコンビもおかしい(後で知ったが、こんな感じの空海入唐を夢枕漠が書いているようだ。これもいつか読もう)。もちろん、完全無欠の無敵キャラではなく、彼なりの迷いや疑問もあり、飽くなき追求心でさまざまなものを見聞きし、高みに向かっていくところがいいのだ。
 しかしまあ、当時の日本国家の容姿までセレクトされたパワー・エリートというの一人であり(渡航時は無名であったが)、その後のスケールは言うまでもない空海。超人的に描かれるのは当然というか、そうとしか描けないだろう。何せ、大唐皇帝をして「五筆和尚」と言わしめたくらいだ(……というのは著者のフィクションかしらん)。いや、よく考えたら、改めて凄いことですよ、真言のサイアーラインに名を連ねたというのは。
 この当時の唐も凄いのだな。『空海の夢』で気になった部分、すなわち、ゾロアスター教イスラム教、ネストリウス派キリスト教徒、まさに人種と宗教のるつぼ。イスラム教国の使者が玄宗皇帝に謁見したさいのエピソードとして紹介されてる話なんて、本当かいなと思うもんだ。そのイスラムの使者は拝礼せずにこう言ったという。

―(我が)国人は天を拝する止まり、王を見ても拝する無きなり。

 (我が)としてるあたり、これは何らかの出典があるのだろう。で、もちろん非礼を弾劾しようとする声もあったが、「習俗が異なるのだ。徳を慕って遠くから来たのだから、深く追究するまでもない」とお咎めなし。うーん、時代とともに移り変わるとはいえ、この頃の中国は懷が深いぜ。で、こんな国際都市で、空海はそれぞれの宗教寺院を訪ねて、それぞれの話を聞く。ここらあたり、俺が読みたいと思っていたようなものなのであった。それぞれの宗教についてのざっとした歴史解説もありがたい。しかしまあ、こんな国際都市のあるタイミングにパッと入唐したのも、東に向かってやってきて、他宗教に比べて必死に布教をしていた仏教に行き当たったこと(いや、求めていったのだけれど)。ここらあたりは、何かもう導きとかそういうものなんだろう。
 で、最大の出会いである恵果阿闍梨。恵果の遷化前に明かされるエピソードは、おそらく創作であろうが、読んでいて熱くなるものがあった。ここらへんはかなり個人的な経験との関わりなのだけれど、そこらあたりに重きを置くあたりが本書の特徴か。そうだ、『理趣経』をメーンに据えて、「大楽世界」なる章があった。『理趣経』の初めはこんな感じだ。
http://www.sra.co.jp/people/aoki/Buddhism/RisyuKyou/RisyuKyou.htmlより

  1. 男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である。
  2. 欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である。
  3. 男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である。
  4. 異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である。
  5. 男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である。
  6. 欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である。
  7. 男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である。
……

 フーン、ここらあたり、ここらあたりが『空海の夢』には書かれていなかったように思う。やはり密教といえば、立川密教でしょう(と、ググると千夜千冊が一番に出てくるから嫌になる。「多神教なのではない。ただ、多神なのである。」フーン、なるほど。それはそうと、千夜千冊ではこの『曼陀羅の人』はつまらないと切って捨てていたっけ)。で、立川流(もちろん、ポルノ的意味でしか知らない。こちらで検索するのが正しかった)でウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E6%B5%81)読むと、『理趣経』が経典というので、俺の勘も悪くない。そうだ、こないだ立ち読みした真言入門みたいな本でも、真言の特徴としてここら辺が挙げられて、淫祠邪教とされる原因とかなんとかあったっけ。
 そこら辺が、ほとんど『空海の夢』に記されなかったのはなぜなのか。これはひとえに俺の読み込みというか、知識と読解の絶対量が足りておらず、何か重要なズッポヌケがあるのかも知れない。これはあくまで入口であって、本質ではないとか。しかし、血と肉と精液の空海はいかなるものであったか、陳舜臣が直截的に持ち出した場面も興味をひかれるものであった。あと、『理趣経』は最澄が貸してくれと言って、それを断った喧嘩の原因であった。これを組み込んでやおい小説を誰か……、書いているかもしれないな。
 まあ、やおいはよろしい。そんなわけで、得るところが大きい小説であった。次は、是非司馬遼太郎に。いや『三教指帰』、『性霊集』? さすがにちょっと対訳付きでも原典は面倒か。しかしなんだ、ちょっと検索すれば「空海二度入唐説」(http://www.houzenin.jp/ronbun/index.html)を論じる方などもあり、掘り返せば掘り返すほど色々な話が出てきそう。まさに空海の海は果てしないのであった。