NHKスペシャル「立花隆・最前線報告」

 俺は認知心理学の講義を思い出した。古い、白黒の映像。一部麻酔をかけられた人間。開頭され、脳が覗く。そこには電極が刺さっている。教授だったか、助教授だったか、こんなことを言った。「脳に電極を刺す類の実験や研究は、人道的見地から行われなくなった。過去の話である」と。それを聞いた俺は、ひどく残念に思ったと記憶する。『攻殻機動隊』のような未来は来ないのか。サイコミュは夢に終わるのか。その講義は土曜の一限で、俺はそのあと競馬に行くのが習慣になっていた。だから、よく覚えている。今となっては、文学部の心理学など虚しいものになってしまったのではないか。
 俺は別の世界に放り込まれたようになった。ここまで進んでいるのか、という驚きだ。内容自体は「夢にも見なかった」というものではない。俺も少ないながらもSF(最近読んだ中では『スキズマトリックス』の印象が強いか)を読んでいるのだし、子供のころから接してきた漫画やアニメで、ビジュアルとして慣れ親しんできたとまで言えるような世界だ。しかし、それは俺の住む世界ではない世界だった。それが、公共放送という形で、情報と知識の最下流にある俺のところにも流れてきた。俺は驚く。
 サイボーグ・アーム。義肢。手の平への神経を残された腕へ移植。そこへの電気信号を読み取り、腕が動く。ここで紹介された日本での被験者にして患者は、普通の主婦。このギャップ。MRI読み取りつつの実験。電磁波の影響を避けて、動く義肢はコードの先。「サイコミュ」と俺は思った。身体は距離を超える。
 立花隆が腕に針を通されて実験。「おうっ」と呻く。信号の受け取りが一歩間違うと、恐ろしい脳へのダメージへなりはしないのか。どんなに無茶苦茶の方へ脳の中の「指」が曲げられても、限界はない。
 義眼。「オーベルシュタイン」と俺は思った。脳への差し込み口は『攻殻機動隊』そのもの。しかし、手術を行った科学者が死んだため、メンテナンスもできないとはどういうことなのか。この手術を行ったのは何者なのか。二十年前に光を失った男は「一点の光でも大きな意味を持つ」と言い切った。
 人工内耳。これについては事前に知識はあった。が、実際に取りつけている人の映像を見るのは初めてだ。本人の判断が無い内での手術に疑問の声もある方法だが、これだけの効果を見てしまうと何を言えるだろうか。そして、脳は機械によって鍛えられる。
 パーキンソン病治療。俺の祖父は俺が物心ついたころからパーキンソン病だった。不治の病だった。祖父はやがてほとんど動けなくなった。俺は、老いとは固くなって動けなくなることだと思った。俺は、老いとは固くなって動けなくなることだと思っている。脳に電極を刺されたパーキンソン病患者は、その電源が入っている間は普通に動ける。馬にも乗れる料理も出来るステップも踏める。全米で二万人がこの治療を受けているという。
 マンマシーンインターフェイス。脳とコンピュータの直結。米軍の講演会。「我々にアイディアをくれ!」。ハリウッド映画における軍の描写のチープさ、虚構性、紋切り型、諷刺的なからかい……、実は全てものすごくリアルなのではないか(特に二番目の女性軍事科学者)。それはそうと、脳とコンピュータとの直結。試験される人はほぼ全身不随の人。そうか、人道的見地はこのようにしてクリアされたか。ネットワークに繋がる限り、世界中どこにでもある手を動かせる。脳で義肢を直接動かす。直接戦闘機を操縦する。都市そのものが一個人の身体としてネットワークされ動かされることも可能なはずだ。
 ロボマウス。人間の指示通りに動くネズミ。右ヒゲ左ヒゲの刺激と快楽中枢へのご褒美。サルのケースは脳がマスクされていた。すごいことになっていたのだろう。サルでの実用化は実現している、とNHKで流れるということ。キータッチに応じて動く人間は絶対に実用化されている。そう信じない理由はどこにもない。ステルス戦闘機が一般に公になる二十年前からステルス戦闘機は空を飛び回っていた。
 人間とは何か。少なくとも、得た技術を葬ることは絶対にしない。脳が機械されぬ世代の俺は俺達は、エクスパンションされた脳を持つ次の次々の世代を恐れる日が来る。彼らが台所にこぼしたとんぶりを拾って生きる日が、いつか来るのだ。
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 パーキンソン病の祖父が、杖をついて歩けたころ。湘南海岸を散歩するのが好きだった。色とりどりのパラソルと水着におおわれたビーチ。その中を、杖をついた祖父がどこまでも向こうまで小刻みに、ゆっくりと、それでも蜃気楼の向こうまで歩いていったそのさまを、俺はぼんやりと思い出した。