『東京漂流』藤原新也

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湾が獣の口とすれば、それに沿って海に突き立つ数々の埋め立て地は、さしずめ東京の牙のように見える。

 この一文は、押井守がどこかで引用していたのではないか(藤原カムイの漫画か?)と思う。藤原新也の代表的な一冊である『東京漂流』、やっと読むことができた。俺は父親の蔵書から『印度放浪』や『西蔵放浪』、や『全東洋街道』に『アメリカ』などの旅ものを勝手に漁って読んだ。その後、『乳の海』(id:goldhead:20041125#p2)や『幻世』(id:goldhead:20060113#p2)、『ノア』(id:goldhead:20050704#p2)、『丸亀日記』(id:goldhead:20050628#p3)などを古本で買った。何冊かの写真集は、実家が無くなるとき俺の荷物に忍ばせた。
 俺はこの本で、著者も実家を失った人間だと知った。著者の「母胎」が悲鳴をあげながら死ぬ箇所、そして、家猫を捨てる場面は実に突き刺さった(俺は俺の「母胎」の死から逃げてしまったし、家猫は親と暮らしているらしい)。しかし、それもある時代の多くの家の喪失の一つの表れであったと言う。高度経済成長における従来の家の喪失。これが日本人に与えた影響は大きいらしい。そして、七十年代の欧米の社会学者が首をひねる日本人の勤労は、家に向けて行われていた。……俺の家の方はバブル崩壊の余波を受けてのものだったが、あれも日本中に起こった何かの一つだったのだろうか。
 そして、八十年代の話。おどろくほど、今と状況が変わっていないように思える。いや、八十年代から今を構成する何かが生まれたのだろうか。俺がそう思ってしまうのは、俺が七十九年生まれであって、八十年代に人格の土台を作られた世代だからかもしれない。たとえば、「田園調布に家が建つ」という漫才師のネタが、一つのキーワードとして何度も出てくる。俺はその漫才師が誰なのか知らなかった(星セント・ルイスらしい)が、「田園調布」という響きに何か特別なもの、別格の地名という印象を未だにぬぐいきれないでいる。とにもかくにも、ここで著者が指摘したもろもろの傾向は、今も確実に存在している。たまに思い出して引くようにしよう。
 本書後半はフォーカス誌に連載された「東京漂流」。痛烈なコマーシャリズムへの問いかけで、藤原がしばらく表舞台から干されることになったという連載だ(その後、丸くなってみて復帰の鍵となったのが『丸亀日記』という。なるほど、以前の感想にも書いたがブレーキ効いていたわけだ)。たしかに、そのサントリー広告のパロディは強烈。人の死体が犬に食われる写真がどんと載っているわけだ。「人間は犬に喰われるほど自由だ」。どこか別の著書で見かけて、大好きになった言葉だが、これで大きくやったものだったか。
 そして、「東京漂流」の連作で一番の爪痕を残すのは「東京最後の野犬 有明フェリータの死について」。冒頭の引用もこれから。あえて連載の順番と変えて、『東京漂流』の掉尾とした一編。猛毒ストリキニーネによって硬直した「東京最後の野犬」の骸。毒入り肉団子。俺は元来猫の人間だが(そういう話ではないが)、この野犬の死には強く打たれる。
 ああ、やばいほど藤原新也熱が高まった。最近の活動などまるで知らない(といいつつチェックしてみたら、ネット上で日記など公開している。どこかで「使った上で判断したが、ワープロは性に合わない」みたいなことを書いていなかったか?)ので、まだまだ読むものはある。ここのところさらに金がないので、慎重に探していこう。熱が冷めたら冷めたでまたいつか。