流れよ我が麺、とペヤングは言った

goldhead2006-05-17

 昔からいわゆるPTA的な存在が批判する対象として、「食べ物を粗末にするお笑い番組」があります。くだらない企画で、大切な食べ物を粗末にするな、子どもが真似したらどうするんだ、という意見です。一見もっともな意見です。しかしどうでしょう、私は以下のように青臭く考えてきました。
<ここから>
 食べ物を粗末にしてはいけない、というのはもっともな意見である。しかし、今の日本において食べ物が粗末にされているのは、お笑い番組やそれに影響される子どものいたずらなどで語られるレベルではない。いったいどれだけの量の食料が、日々、家庭や、コンビニや、飲食店で廃棄されているのか。今、日本人が「もったいない」の精神を外国人から称揚されたら、それを誇るべきではなく、現状に恥じなければならない。それだけの量の食料が日々廃棄され続けている。もし、食べ物の粗末を問題とするならば、そのような巨大なシステムに向けられるべきであり、お笑い番組を消すことによって隠蔽して済まそうというのは卑劣だ。
 また、お笑いを不当に低く見るのはなぜか。社会派ドラマや映画で食事が台無しになるシーンがあったとして、それに対する抗議など聞いたことはない。あるいは、お墓や交通事故現場に備えられる飲食物はどうなのか。あれも人の口には入らず無駄になるには違いない。そこで「それらを下品なお笑いと比べるべきではない」と言う意見もあろう。しかし、それは笑いをあまりに低く見積もった考えではないか。「泣き」「感動」をやたらありがたがる風潮があるが、「笑い」はそれに何らひけをとるものではない。むしろ、廃棄食料に比べれば、ほんのわずかどころではない少量の食料で、多くの人間精神に笑いをもたらすならば、食べ物は一食としての価値を超え、有効に用いられたと言うべきである。
<ここまで>
 さて、昨夜の「リンカーン」です。ダウンタウン浜田の誕生日を祝うために、1,200食分のペヤングをプレゼントするという企画です。巨大な容器に1,200食分のペヤングを開けて、クレーンにつるした溶鉱炉(?)からお湯を注ぎ、いっぺんに作るという企画です。
 最初に結論を言えば、私はとても不愉快に感じた。不愉快でしょうがなかった。それなのにチャンネルを合わせつづけたのは、完成品を見てみたいという興味にすぎませんでした。なぜ、そう感じたのでしょうか。以下のように考えられます。

  • まず考えられるのが、私が年をとったということです。子どもや思春期のときを過ぎて、くだらなさ、下品さを笑うよりも、大人らしい分別がついてしまったということです。人はみな、おっさん・おばさんになっていき、口うるさくなっていく。その意識の変化が、私に不愉快さをもたらした。
  • あるいは、私が貧しくなったからかもしれません。十年、十五年前と比べて、私は貧しくなった。ジャンプ放送局のえのん(なつかしい)ではないけれど、ペヤングですらコンビニで買うのに抵抗を感じる。できるなら安いもの買いたい。一円でも安く買いたい。そういった点から、ああいった番組制作からすればはした金のかけら(容器の方にずっとお金がかかっているでしょう)にすぎないペヤングを心底もったいなく感じた。
  • それともやはり、元から私は食べ物を粗末にするのが嫌いなのでしょうか。そうだ、私は食べ物を残すことに、異常とも言える抵抗感がある。ちょっと考えればわかるように、上の青臭い考えなど本来は必要ない。面白いものを見て単に笑えばいい。誰かの声など関係ない。それが、そうはいかなかった。そのあたりの無理が破綻してきた。そういうことなのかもしれない。

 ……いや、これら私自身に関するすべては、まさにそれぞれ絡み合って本当のことでしょう。しかし、その上で私が感じたのは、別のこと、一つのこと、すなわち「面白くなかった」という一事に尽ようにも思えます。
 馬鹿馬鹿しいアイディアは悪くないと思います。よく、田舎の町がギネスに挑戦などといって、馬鹿でかい釜かなにかで馬鹿みたいな量の豚汁など作ったりしていますが、ああいったスケールがあっていい。バケツから乾燥具をひしゃくで撒くなど、絵は面白い。
 しかし、あれだけ芸人を揃えて、いや、逆にあれだけぞろぞろ居るせいなのか、まるで笑いどころがないのです。むしろ、トリビアの泉の実験ではないけれど、スタッフが黙々とやった方が面白かったんじゃないか、というくらい。せめて熱湯をかぶるとか、熱湯に飛び込むとか、熱々のそばに身を投じるくらいの覇気は見せてもらいたいものでした(それで面白くなるかはわかりませんが)。
 また、あの規模で「カップ焼きそばの湯切りに失敗」をやってみようというアイディアはありかもしれません。ものすごく馬鹿馬鹿しい悲劇です。しかし、「あら、出ちゃったね」の肝心の場面を撮さない根性の無さには落胆します。いや、ここが一番のポイントだったかもしれません。「抗議が怖ければ最初からこんな企画はやらなければいい」という印象を強く受けたのです。せっかく無駄にするのならば、土まみれでひどいことになった1,200食分のペヤングを流すべきだった。それから逃げた姿勢が一番いただけない。それこそ、笑いのために用いられることもない、ペヤングの無駄死にです。今さらプロジェクトX風も無いでしょうに。もちろん、最後の「出演者・スタッフでおいしくいただきました」のテロップも同様です。
 というわけで、久々に見た「リンカーン」ですが、見なければよかったというくらい、げんなりさせられました。また、たかだかこの程度のことにげんなりしてしまう自分にも悲しくなりはします。あるいは、この不愉快さは私の老いや貧困、感受性の低下の証のようにも思えるからです。しかし、これだけは言いたい。それらを覆すような面白さは無かった、2,400食分のペヤングが犧牲になるだけの価値は無かった、ただつまらなかったのだけは確かだ、と。
 こんな風に、私はペヤングの大盛りを食べ終えた昼休みに考えた次第ですが、パッケージの作り方のところ、お湯を入れて「三分位」と妙にアバウトなことに気づき、少し救われた気になりました。