『働くことがイヤな人のための本』中島義道

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私は私の分身にきわめて近い人々にメッセージを送りたいだけである。

 と、まえがきにある。俺は『孤独について』(ASIN:4166600052)、『ウィーン愛憎』(ASIN:4121009568)、『うるさい日本の私』(ASIN:4101467218)の三冊を読んだことがある(本業の哲学方面は知らんです)。読んだ結果、俺は、この人の、特に子供時代の話に覚えがあるタイプなのを知っている。この著者のある種の強烈さ、そしてある種のくささのようなものも知っている。だから、解説で斎藤美奈子が心配している「書名にひかれてこの本を買った人」ではないので安心だ。
 とはいえ、やっぱり俺は「働くのがイヤな人」なのも間違いない。対話形式になっているこの本のひきこもりのA君そのもの、若いころの著者そのものなわけだものな。人をそう簡単に分類できないが、俺はやはりこの著者のような人間だ。健全で明るい社会が苦手だ。カラオケを歌わされるくらいなら死んだほうがマシだ。それで、ちっぽけなプライドでぱんぱんになって、傷つくのを極度に恐れるタイプなわけだ。で、そんな俺がこの本を読んで、働く意味、生きる意味を得られたか。得られるはずがない。それは予想通りだ。しかし、「そういう結論に持っていくかよ!?」という力業には唸らされた。テレビショッピングも顔負けだ。もしもこの本を、表紙の絵柄やタイトルに惹かれて手を出した人は驚くかもしれない。でも、それで何か、というか哲学に目覚めるという人もいるのだろうか?
 で、気になった箇所を書き留めておこう。

当時「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」という「悪人正機説」を誤解して、勝手気ままな悪行を重ねたあげく「俺は悪人だ、だから救われる」と奢り高ぶる輩が少なくなかった。それを『歎異抄』の作者は「本願ぼこり」と名づけた。

 世の中で働く善良で鈍重な市民を見下し、自分はその小ささから抜け出した、と思う人間は、その善人たちより臭い。善人を裁いた目で、自分を裁かないという欺瞞に陥りがちだ。たとえば、不登校児新聞などにおいても、その価値の逆転が見られるという。ルサンチマンのようなものという。……うーん、これは痛烈だ。この「本願ぼこり」という言葉を知っただけでも、この本を買った意義があった。が、やはり、著者もここでいう「悪」は何かでいろいろな議論があるとしているように、難しい問題なのかもしれない(http://shinran-bc.tomo-net.or.jp/report/report03_bn17.html)。本願ぼこりを非難する者にも同様の悪、臭さはないのか、と。この微妙なバランス。

前近代は出自や身分によって差別されていた。つまり、身分が低ければたとえ能力があっても「人の上に立つ仕事」はできなかった。それは、いまではたいへん不当なことだとみなされている。しかし、近代以降は能力の不平等だけは認めて、それ以外の不平等を一切認めないという社会である。能力の優れた者も劣った者も、同じスタートラインに立って走ることを余儀なくされる社会、そしてその結果を重んじる社会である。それは、やはり同じほど残酷な社会なんだ。

 これはずいぶんラディカルな考え。うすうすと皆感じながらも、ちょっと言葉にしにくいようなこと。そうだ、たとえば、生まれた家が裕福か貧しいかはあからさまに偶然だし、世間もそれは認めるところ。だが、生まれ持った能力(の上限?)というものも、資産のように数値化できるわけじゃあないが、やはり歴然とした差があって、それもまた単なる偶然にすぎない。精子のころにいくら頑張ったところで、出てくるマンコは選べない。
 (あるいは、前世、という発想は、この不平等を納得するための思想だったのだろうか。前世で徳を積んだ人間が今生で報われる、今生で徳を積んだ人間は来世に報われる。それでこの不平等……いや、前近代の身分的な不平等か、それを納得しようという思想だったのかも、と俺は今、思ったりしたが)
 で、この哲学者は「不平等を是正せよ」、「能力で評価するのをやめよ」とは決していわない。優れているから悪というわけでも、弱いから善というわけではない。みんな平等にこの不合理、不条理を受け入れた上で「称賛したり非難したりすることをやめるわけにはいかない」というのだ。ふーむ、よくわからないが、ここらあたりから、哲学につながるというが。あ、もう一つ、理不尽の構造があって、それは、成功や失敗はこれまた偶然によって大きく左右されるものにすぎないということ。しかし、だからといって、世の中はすべて偶然に過ぎないという態度も、努力=成功した、怠惰=失敗したという図式化も飲んではいけない。これもまた両方のみこめ、ということのよう。わかるようなわからないような、一番めんどくさいところを進むような。
 でも、この偶然の不条理は、毎週末に実感し続けているのよね、俺は。これらはすべて競馬に存在することだ。人生は競馬の比喩だ。

さらに非情なことに、成功者はまさに成功しつづけることをもって、ますます人間的に豊かになっていく。そして、失敗者は失敗しつづけることをもって、ますます人間的に貧しくなってゆくんだ。

 これはもう、自分が日々感じながら生きていることだ。もちろん、失敗のスパイラルに陥っている方で、だ。「与えられるものはさらに与えられ……」ということだ。おお、新約聖書のころからはっきりしていたことかもしれないな。そうだ、「タラントンのたとえ」のタラントンは、タレント(才能)の語源だったな(id:goldhead:20050517#p4)。しかし、キリスト教では、信仰の重さをたとえている、と、解釈するらしいけど、俺は、これ、この不合理さを突きつけているように思えるなっと。ただ、その目的はわからない。わからないけど、聖書はそこまで理路整然とした学術書でもないよな、とか。

 ……とまあ、キリがないのでこんなところで。しかしなんだろう、呉智英と似てるなあと思った。街の騒音と戦っているし(調べたら対談があったようだhttp://homepage1.nifty.com/shobo/dates2002/020610.htm。あと、俺もうるさいのは気になりもするが、戦う気力はないな→id:goldhead:20060920#p4)、私塾のようなこともやっている。いや、それだけでなしに、たぶん、人生の、世の不合理に対するものとして、呉は儒教を選んでいるような。ああ、あと、「ほとんどの人間は凡人だ」、「一握りの天才の話など参考にならない」ってところも徹底的に共通しているな。このあたりは、今話題の……かどうかしらないが、藤原新也が日記で取り上げていた新風舎がらみの話(http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php)なんかを思い出したり。さらにこの本では、ピアノコンクールだろうと文学賞だろうと、一般社会と同じ苛烈な競争と偶然がある、と言っておるし(でもそこで、かといってすべての審査がでたらめというわけではない、とフォローしているわけだ。これが複眼的なものの考え方というのか、絶望は全否定には陥らないところなのだろうか)。
 で、働くことがイヤな俺はどうなのか。いや、イヤとはいえ、正社員じゃないとはいえ、かなり働いているのだから、どうもこうもないのだな。それも、この著者のように自らなんとかしたのではなく、世界的なカタストロフィでなしに、実家がなくなるという小さなカタストロフィによって追い出された結果だ。それで、今や否応なしに働かなければならない。しかし、やっぱり働くのはイヤだな。今の場はたまたま心地いいが、たとえば全く知らないところで人間関係を構築しなければならない、カラオケに参加しなくてはならないと思うと、手に汗が染みてくる。解説では「中産階級的な悩み」というけれど、俺のような下流だってそう思うぜ。まあ、俺とて毎朝見かける寿町のおっさんよりは中産階級、それなりに娯楽すら享受しているくらいの余裕はあるから当てはまらないか。まあ、トキやパンダでもなく、ネズミやゴキブリでもない、コウモリ野郎ってところなんだろうな、と。