働くおっさん劇場の神様

 一昨日の夜だったか、松本人志の「働くおっさん劇場」を見た。見たのは二回、いや三回目だったろうか。はじめて見たときは「妙なことをはじめたものだ」と思った。思ったが、実のところ三年も前に「働くおっさん人形」(ASIN:B0000A123Y)なる番組があったのだ。こんな番組があったとは露ほども知らなかった。知らなかったことに少し驚き、「働くおっさん人形」というタイトルにも胸打たれた。胸打たれたのは「働くおっさん劇場」でも一緒だったろうか。
働くおっさん劇場」はおっさんをいじる番組だ。番組に出続けている以上、素人と言えるのかどうかわからない。しかし、たとえ彼らが「ガキの使い」のおばちゃんのようにエキストラ派遣会社に登録していた人だとしても(id:goldhead:20050128#p5)、彼らのリアクションは訓練されたリアクションではない。演技のための勉強の末でもなければ、お笑いに打ち込んだ末のものでもない。単に、おかしいだけなのである。おかしい人を笑いものにするだけなのである。人を笑いものにするのは、笑いと同時に後ろめたさもある。自分よりおかしな言動を笑い、自分がそうでないことに安心する後ろめたさ。あるいは、ときには自分もおかしな言動をして笑いものになるかという恐怖。それが、スパイスになっている。そして、よほど計算され尽くしたものでなければ、この後ろめたさはでないのではないか。素人をいじるからこそ、天然だからこそしみ出るものなのではないか。言うまでもなく、これはクラス内の立ち位置、いじめの構造に少なからず似ているところがある。それもまた、スパイスだ。
 エンタの神様はどうか。エンタの神様は、計算し尽くした上に成り立っている。計算されすぎていて、私など妙な気持ちにさせられるくらいだ(id:goldhead:20060718#p5)。妙な気持ちは気持ちとして、お笑いとして比べれば、私は「働くおっさん」を取りたい。比べるまでもなく、爆発力に大差がある。所詮、プロデューサーや構成作家が頭の中で考えたものなど、限界がある。その限界を超えるくらいの天才芸人や作家もいるだろうが、この番組はそういうものでもない。選び抜かれた素人(この点は完全な作為である)をテレビカメラの前、松本人志の質問の前に立たせたときほどの異常性は出ない。
 たけしのお笑いウルトラクイズはどうか。これこそが、訓練されたお笑い芸人を異常性のるつぼに投げ込む究極の場である、と私は思っている。先日来世間の話題をさらっているように、そのお笑いウルトラクイズが復活する。山本モナの起用で、すでに放送前から及第点といってもよさそうなものだが、果たしてあの場が再び天から舞い降りるのか、地獄の底からせりあがってくるのか、少なくとも来年の正月までは死ねない。
id:goldhead:20050823#p1(芸人須弥山論叙説)でも、お笑いウルトラクイズをそういう場として記していた。はっきりした考えなどなしに垂れ流す日記で二度も出てきたのだから、あれが私に与えた影響は大きかったのだ。体に生肉を、額に悪一文字を。