ばんえい競馬問題についてのメモ

※はじめに断っておきますが、私はばんえいの馬券を買ったことが一度もありません。
※要点を整理する能力と時間がないので、とりあえずのメモ。
→昨夜の報道ステーションばんえい競馬存続問題が取り上げられていた。ほとんど考え得るかぎり、ばんえいに好意的な内容であった。夕張市の財政難などが報じられる中、おなじく官主体の失敗事業について、あれだけ援護射撃するのはなかなか難しかったのではないだろうか。
古舘伊知郎の一言は鋭かった。この番組での彼としては珍しいことだ。「普段はまったく興味がない人間が、こんなときだけ‘文化だから守れ’と軽々しく言っていいのか」と。まさにその通り、文化は帯広市民に飯を食わせない。帯広市もそんな博打をせず、静かに縮小していきたい。そういう地元民の思いに、俺のような者、金も出さずに声だけ出す者はとうてい許し難い存在だろう。
→しかし、俺は俺で、金もアイディアもないものとして、その程度の声の軽さとして、ばんえい存続を、せいぜい一年くらいの猶予を与えろということを支持する。それを表明する。その無責任さによる非難は受けざるを得ない。
→とはいえ、「やりたい奴が自分で金を出して運営しろ。それ以外は黙れ」という論には与しない。無責任な外野の声の集まり、それを潮流と見て金を出せる人が影響を受けないとは限らない。
→別の、あるいはばんえいのみならず、競馬全体に関する問題。昨日の番組でも触れられていたこと。存続擁護のために何度か繰り返された「ばんばたちが馬肉になる」というメッセージ。三歳のシベチャタイガー、定年まで七年もある。しかし、明日にも肉になるかもしれない。馬がかわいそうだ、救ってあげなければ……。
→が、そこには大きな矛盾がある。ばんえい競馬が廃止されずとも、山ほどのばんばは馬肉になっている。阿蘇へ送られている。廃止されなくても、それは変わらない。それが現実だ。シベチャタイガーは、たまたま活躍しているにすぎない。六分の五の確率で、競馬に出る前に「グルメファンの欲求を満たす食材として全国に配送」(ばんえい競馬公式サイトより)されてしまうのだ。これは避けられない事実だ。
→また一方で、ばんえい競馬自体が「残酷だ」という声もある。これは、致し方ないことのように思える。重いソリをひかせて、あのぶっとい手綱でぶったたく姿に、抵抗を感じるのも普通の感情の一つだろう。見栄えにおいて、疾走するサラブレッドよりも過酷なものに見えてしまう。パワフルさが売りとなる一方、ばんえいを意識した人が、反感を抱く可能性すらある。「あのサイズの馬にとって、あれは合図程度のもの。おもりだって、昔からこういう使役に使われてきた」と説明しても、どこまで通じるだろうか。これも避けられない事実だ。
→はたして、ばんえい競馬を一時的に存続させるためのアピールとして、これらを覆いかくすことが妥当だろうか。これはむずかしい。ただ、覆いかくしたとして、いずれその中身を知った人が、一番の競馬の敵になる可能性がある。動きになる可能性がある。それがおそろしい。ばんえいに比べて優雅に見えるサラブレッドの方が、むしろ競走中の怪我で死ぬ確率ははるかに高いこと。多くのサラブレッドも、やがて肉になるということ。そこまで考えが及んでしまえば、競馬全体がどうなるのか想像もつかない。
→もちろん、社会の動物愛護意識のようなものが、いきなり沸点に達することはない。ただし、別の要素があれば、それらが化学反応をおこしてどうなるのか。すなわち、大中央競馬が国に寄与しなくなったとき、「競馬が残酷だ」という声が一層の追い風になりはしないだろうか。
→だからこそ、非競馬ファンに「競馬場が廃止されれば、馬が肉になる」というアピールすることは、危険であるように思える。競馬ファンには別の「惜しさ」が生じることであっても、それは通用しないだろう。
→では、競馬ファンは、競馬の存続を願う人間はどういう態度を取るべきか。「しょせん、みんなコンビーフになるんだよ」と冷笑的な態度で予防線を張っておくことだろうか。
→もちろん、競馬に対してどう折り合いを付けるかは、その人次第だ。しかし、もしも非競馬ファンに対する態度によって、競馬が悪い方向に向かうのはよくないはずだ。ならば、隱蔽と欺瞞は避けるべきだ。避けた上で、その価値をうまく説明することが必要になる。
→至難の業かもしれない。誰か馬主が書いていたが、そもそも競馬は馬殺しだ。しかし、しかし、その上で、馬と真っ正面からつきあい、愛している人たちがいる。まさに馬の現場にいる人たちがいる。彼らの馬に対する愛は、虚偽だろうか? 偽装だろうか? とてもそうは思えない。その点を、どうアピールしていくのか。もちろん、人類と家畜の歴史、あるいは、食も含めて、人間が奪う他の生命の話。倫理学かなにかわからないが、そういった側面からのアプローチも可能だろう。文化、と一言でいうのはたやすいが、文化はとは何なのか、考える必要もあるだろう。
→また、たとえば、できるだけ競走馬の余生を豊かにする、そういう考え方もあってしかるべきだろう。一歩間違うと、競馬自体の否定に繋がりかねない(安西美穂子ハルウララ騒動のときも、こんなことを書いた→id:goldhead:20050112#p2)。ただし、ドライに競馬を見ている人であれ、営利活動としての利害一致において、競走馬の余生が充実するサイクルを否定することはないのではないか。
→ただし、もし完全な理論武装ができたところで、非競馬ファンが百人いたら百人を競馬ファンにするのは無理だし、それどころか百人のうちどれだけを競馬容認派にできるかわからない。ギャンブルという一般的に忌避される要素を除いても、競馬は多くの矛盾や問題点をはらんでいる。
→ある種の非難を解消するのは、永遠に不可能だ。しかし、それでも、できるだけ容認派を増やすこと。「俺は競馬が嫌いだが、廃止しろとまでは言わない」という人を増やすこと。百人いたら、五十一人をそうしておくこと。その程度の理解を得ておくことが、やがて沈みゆく日本社会、馬券売り上げ低下に対する備えになるのではないか。
→しかし、そんな危機的状況を想定しておく必要があるのだろうか。むしろ、今までのイメージ戦略で間違いでないのではないか。ばんえいにしたって、今すぐ公式サイトからグルメを取り去るべきではないのか。要するに、どんな小さなささやき声でも、競馬自体の抱える問題点を論じるべきではないのではないか。そういう気もする。気もするが、どうだろう。よくわからない。よくわからないけど、ささやいておこう。