寝不足の朝歩きながら考えたこと

 恵まれた者と恵まれない者がいて、恵まれている者はより恵まれ、恵まれない者はより恵まれない傾向にあるのは聖書の昔から変わらない。しかし、もし天地開闢よりこの方その方向に進んでいたとしたら、とてもじゃないが人類など存続していないのではないか。たとえときどきの天災や戦争や革命でいくらかのシャッフルがあったとしても、それももっと大きな流れの中の点、大河にさした竿程度のものにすぎないのではないだろうか。だいたい貧しい者が富める者を打ち倒した例はあるかもしれないが、モテない人間が徒党を組んでモテる人間を打ち倒した例は知らない。モテるかどうかは些末だが、総人類の全歴史の些末が積み重なれば太陽系の果てに届く。では、いったい人類の幸と不幸のバランスは崩れていないのか。ここでは一応、バランスは何かによって保たれているとする。俺を起点とした場合、俺より富めるもの、かしこい者、社交性のある者、度胸のある者、背の高いもの、腕力のある者、歯並びのよい者などに嫉妬する。たとえば腕力、暴力を意味するものでなく、純粋な腕力。この非力さによって俺は俺の悲観的な将来における職探しの範囲が大いに狭められていると考え、それにおののく。しかし、俺が人類最弱腕力かといえばそんなこともなく、成人女性の平均よりは上だろう。ひょっとしたら、大したことはないのかもしれない。というか、大した悩みではないのだろう。しかし、俺の中では一つのコンプレックスに違いない。客観的比較をすることはできるかもしれないが、主観の参考になるだけであって、主観を否定するものではない。大した悩みゆえに誰からもかえりみられない悩みもあるのだ。けれども、そもそも手のない者からすれば、五体満足者の戲言にすぎない。戲言にすぎないが、そして、手のない者の手のないことについて、手と足のない者から見ればある程度は同じ構図が成り立つはずだ。じゃあ俺がうらやむ者についてうらやまれる者は俺にとって些細と思われることに俺からは想像しがたいさらに強い負い目を抱き、世の中の多くの人間からうらやまれる境遇にある者は、その境遇からはうかがい知れないなにかによって大きな負い目や不安、恐怖を抱き、気がついたら止められない変態嗜好でお縄を頂戴していたり、瓶で頭をかち割られてバラバラになっていたりするのかもしれないという風に思ってみたものの、結局のところこういった底辺人類のろくでもない都合のいい妄想こそがバランサーなのではないか。