自分の中のストーリーこそ疑え

 今朝、Schickの振動するカミソリでひげを剃りながら思う。「俺は何度かGilletteやなにかに浮気したけれど、やはりSchickに戻ってくる。俺のヒゲにはSchickがいい(本当はしっくりくる、と思ったのだが、とてもじゃないが書けない)、それは俺自身が経験した歴史に裏打ちされているのだ」と。
 だが、ちょっと待ってほしい。それは本当だろうか。本当にGillette貝印よりSchickだな、と比較できたのか? たまたま、そのとき安売りしていたから他社のを選び、ふたたびたまたまSchickにおまけがついていたりしたから戻っただけなんじゃないのか? こう問いかけてみると、答えがない。単なる偶然の情報を理解しやすい、飲み込みやすいストーリーにはめ込んで消化していただけではないのか?
 こう考えてみると、自分のいろいろな選択について、やはり本当に良いと思うものもあれば、惰性や偶然にすぎないと一目で判断できるものもあれば、Schickのように宙ぶらりんになるものもある。
 とはいえ、いちいちそんなことに気をかけて生きていけるだろうか。なかなか難しい。俺は無自覚に「Schickはいい」と書く。書いたところに邪念はない。経験に裏付けられていると思うからだ。しかし、その邪念のなさすら不確かだ。
(こう考えると、ネット上に腐るほどある口コミというものも、いかに不確かなものかということになる。中には邪念、というと言葉はわるいが、GK乙的なものもあるだろうし、ちょっとした仕事上のおつきあい、あるいは自分が属する業種的なバックあって、それをそっと隠しての意見や口コミもあろう。それらはよく言われることだが、その当人に邪念なく、真摯に自らの経験を語っているというものについても、やはりその根拠の所在は曖昧やもしれない。)
 やはり、「情報信ずべし、然もまた信ずべからず」(id:goldhead:20070131#p1)の心持ちで何事にも接するのが肝要。しかし、それは何よりも自らの内なる情報に向けてだ。自分の記憶や体験は、自らが覚えやすいように、把握しやすいように、飲み込みやすいように編集されてしまったものだ。その過程によこしまな無自覚の思惑があるかもしれないし、ないかもしれない。常時意識できることではないかもしれないが、ときには思い起こすことも必要かも知れない。