『般若心経の智慧』秋月龍みん

ISBN:9784569567075

 般若心経と私。あれは中学の修学旅行で京都を訪れたときの話。私は金閣寺でひとつのおみやげを買った。一面にルビ付きの般若心経がプリントされた手ぬぐいだ。お経がなんたるかまったくわかってなんかいなかった。ただ、なんだかわからないが神聖とも恐ろしいとも思える「般若」のお経、それがプリントされた手ぬぐいなんて、面白いじゃないか、というわけだ。
 その手ぬぐいは、その日の晩にさっそく活躍した。深夜にまで及んだチンチロリン大会において、私はさいころを振る前に「まーかーはんにゃーはーらみったしんぎょう!」などと唱え、頭に鉢巻きにしたりして、はたしてそれでご利益があったのかどうか忘れてしまったが。ただ、数学の教師が見回りにドアを開けた瞬間、頭に般若心経を巻いた私とはじめに目が合ったことだけは確かだ。しかし、賭場についてはなにも言われなかったので、あるいはそれが御利益だったのかどうか。
 その手ぬぐい、実家が失われたあとも、私の荷物に紛れ込んでおって、いまも活躍している。小物入れの鍵を入れておく段の底に敷いてあって、夜中遅くに帰ってきても、ジャラジャラと鍵の束が音を立てないという工夫。ありがたい、ありがたい。

 さて、般若心経は何を意味するのか。空海がらみの本を読んで、真言についての言及はいくつか読んだが、そのあとに禅の方へ行くと、あまりお経など出てこない。お経ってなんだろう、というのは祖父の葬式のときに読経させられて少し感じた疑問。
 そこでこの本、『般若心経の智慧』である。作者は『誤解された仏教』と同じく秋月龍みん(みんは王へんに民、‘王民’)。こないだみなとみらいの有隣堂で『誤解された仏教』が「なんとかの100冊!」みたいなのに選ばれて平積みになっていたが、この人の本ならば、という判断。
 それでこの本、大学生相手の講義がもとになっていてわかりやすい一方で、人生訓的、説教的仏教参考書とは一線を画す、ストレートのコーヒーだと前書きで宣言されているので、まさに私には打ってつけといったところ。多少難しい表現も出てくるというが、鈴木大拙先生の本などを数冊読んでおったり、『無門関』や『盤珪禅師語録』なども読んでおったりして(おまけにこの本にも幾たびか登場して)、その下敷きを活かして、復習や勉強になったと感じる。

 「まかはんにゃはらみった」は“偉大な悟りの智慧の完成”を意味する。それにより五蘊皆空であることを悟り、一切の苦厄を度した、と。一切の苦厄とは、一切衆生の苦厄であって、悟ったところで、また衆生の中に戻り、すべての苦しみを救いたもう、ということ。それぞ大慈悲のハタラキ。そうそう、そうなんだよな、菩薩とはそういう存在……というのを、「ああ、そういうことか」と私が合点したのは、仏教がらみの本ではなく、フィリップ・K・ディック『ティモシー・アーチャーの転生』(……あれ、日記検索したら、感想文書いてないぞ。これは驚きだ!)。読んだ人ならわかってくれるでしょう。そして、観自在菩薩とはなにか、「人々みな観自在なり。外を求むるべからず」と。

 なんて調子でメモしていくと、終わりはしない。いや、順番もバラバラに、気にとどめようというところだけメモしておこうか。

 『心経』には「独自の文法」があるのです。その一つがここの「無」の字に見られる独特な文法的働きです、「A無B」とあれば“A(場所)に、Bがない”ということを表します。「無」はふつうには“〜がない”の意です、すなわち動詞です。そこを私は“無の○○”というふうに、形容詞的に読もうというのです。

 般若心経には数えただけでも……面倒だから数えないが、いっぱい「無」がある。そこんところの、著者の解釈というあたり、肝だろう。

 『心経』がほんとうに言いたいのは、分解してバラバラにして何もなくなるという「析空観」ではなくて、“あるがまま・そのまま”の『如』を見るという「仮諦」と「空諦」を一息に見た「中諦」としての真如実相を見ていく体空観という見方であって、その「空」のなかには小乗仏教がいう「三科の法門」なんてないぞ、と言っただけでは届かないわけですね。

 と、ここんとこは難しい言葉がいくらも出てくるが、たぶん、この辺。否定即肯定の見方、一息に、というとこ。で、無○○の○○の方は、図解などもあって整理されている。私にゃとりあえず覚えられませんが。でもそうか、般若心経毎日でも唱えれば、だんだん覚えられるかもしれん。

 でも、誰もが皆、そうした達人にならなければダメというわけではありません。私たちは私たちなりに、分に随って、「真人」として、「真如」の世界を生きればよいのだと思います。他人は他人、私は私です。仏教というのは、常にただ「即今・此処・自己」に生きる教えなのですから、肝心の大事は、この私が、私は私なりに、そうした「無」の「眼耳鼻舌身意」を体験して、「真人」(仏陀)としての「真実の自己」を生き抜くことです。

 禅の本なりを読んでいて、数々の悟りのエピソードが出てくる。で、気になるのが、じゃあそういった高僧たち以外の多くの僧は見性を得て死んでいくわけか、それとも、得られるのは歴史に名を残す一握りなのか、と。そして、僧以外の圧倒的大多数の人間はどうなのだ、と。その答えになるようなことはあんまり書いていない。というより、書いていないことが、一つの立場のあらわれなのかもしれん。「そんなのは知ったことか。他の誰がどうこうじゃあない、お前の問題だ。達磨のヒゲがあろうがなかろうが関係ない」とか、そんな感じ。で、上のところの箇所は、その感じが直截的に珍しく語られているんじゃあないかと思ったり。もっとも、三学のさの字とも縁がなさそうな私が、私なりの「ノミの金玉八割り」ほどのお悟りを得ることもないわければ、猟のか何かの道を究めることも無さそうなわけなんだけれども。

 十牛図、というのが出てきて、これは面白い。
http://homepage2.nifty.com/sanbo_zen/cow.html
http://www.katch.ne.jp/~hkenji/new_page_46.htm

 禅者のさまざまな悟りについて、だーっと述べてる箇所があって、その中に見覚えのあるエピソード。読み覚え、ではない。そうだ、あれだ、最初に鈴木大拙(に関する)本を買ったとき(id:goldhead:20070213#p2)の思い違い、「あれ、この人まえにNHKアーカイブスかなんかで見たお坊さんか?」のお坊さんの話だ。山田無文、ビッグネームでございます。

 最後の方は真言で、この本は顕教的立場から書かれているので、そのあたりは流し気味。でも、最後の「ぎゃーてー、ぎゃーてー〜」、元はといえばインドの言葉なので、そちらの言葉で解釈できるという。その言葉がなんだかよくて気に入った。ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー!

往った、往った、彼岸に往った、完全に彼岸に往った、悟りよ、めでたし!