有罪率99%の国で

ひたちなか男児死亡事故 トラック運転手に無罪

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080117/trl0801171240007-n1.htm

 珍しい! しかし、こういうケースだってあるだろう。法定速度内で安全に十分注意を払いながら運転しているミハエル・シューマッハーでも避けられないような事故だって、世の中には起こりうるものだろう。人身事故が起こったら、どんな理不尽な状況でも車がバイクが責任を負わなきゃいけないってのはおかしな話。遺族の方にとってみれば納得いかない話かもしれないが、他の誰にも……
(!――ここから括弧
 男児当人の責任……というと酷なのは承知だが、やはり法的な意味とは別に、そこに帰結するのは否めないのではないか。無論、保護者の責任論のようなものも出てくる可能性がある場合もあるだろうが、この件については不明。また、いずれにしても、そこを指摘するのは人情味に欠くように思える。もちろん、人情味上はそうだが、それを法の問題、賠償の問題とした場合、人情に反してもノーをつきつけざるをえないこともあるだろう。しかし、だからといって、司法の場、利害の場以外でことさらに子を失うなどした人を糾弾するのは人情に欠くと思う。――)
 ……責任を取りようのない理不尽な不幸は起こりうる。それはどこかの誰かが理不尽に引き受けざるをえない。それが世界だ。
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 と、どうも車寄りになってしまう自分について検査が必要。
 →弱者の弱者ゆえの強みに対する嫌悪感
→強者の立場に置かれている強者の弱みに立った理不尽感(強者たる責任と自覚を放棄したいという甘えが作用しているのではないか)
→この場合の強くて弱いのは自動車であり、弱くて強いのは歩行者だ。
<?>なぜ自動車(に乗ってる人、だな)に感情移入するのか。
 →自動車側だった、ということ。免許保持者。昔はそこそこ車を運転していた。頻繁に原チャリを運転していた。危ない歩行者に遭遇したこともあったかもしれない(→今や一年に三十分もハンドルを握らない。車も原付も持っていない。歩行、そして自転車。自転車はコウモリのようなやつ。もちろん対人では強者たりうるが、対自動車という視点では大差ない弱さだろう)。→そういう意味では、自分はあくまで歩行者側に与するのが道理かもしれない。理不尽であれ罰せられるとすれば、安全運転への意識は高まるだろう(責任を取りようのない理不尽?)。
 →弱者強者に対する理不尽さの一例として。俺はこんなに弱いのに、弱さゆえに強いところが与えられていない。弱くて強いのはうらやましい。うらみ、そねみ、嫉妬。その対象をこの目で見たことはあるだろうか。自動車を巡る何かとは違って目に見えない。ただ、それは俺の心の中だけにある、というわけではないような気もする(世界は心の中のもの、というわけでなければ)。→しかし、いつ自分が弱くて弱いことによって立場その他的に強まるのがフェアなのに、それがアンフェアとされて弱者弱者弱者になってしまうことを想定すれば、あまりそのうらみ、そねみ、嫉妬は抱いておかない方がいいようにも思える。
 常に思考に志向に指向にブレーキ。速度を落とすことは、判断の余裕に交換できる。しかし、死なない設定の世界ならば、向こう見ずに速度を出して壁にぶつかった方が面白いかもしれない。