『孤独のグルメ』を読む

孤独のグルメ (扶桑社文庫)

孤独のグルメ (扶桑社文庫)

 最近読みきり復活とかで話題になり、そういえば読んでいなかったと今さらながら手を出した。ネット上でネタになっているのをちらちら見て、「おそらく自分好み」と思っていた。だってあんた、俺はデパートの屋上でサボテン買ったことありますよ。でもって、そういうものって、安心して買い忘れてしまう。
 
 いきなり、『孤独のグルメ』とは関係ない話をする。俺が物心ついて、少しばかり日本語が読めるようになったときの話だ。父が俺の国語力を育てようとして読むようすすめてきたのは、東海林さだおのコラムだった。

 ……ということは前にも書いたからいいや。ともかく、文章力がどうなったか知らないが、俺は小学校低学年にして、レバニラとご飯の食い進め方のバランスに気を使う人間になった。それは間違いない。そして、おしゃれな場所やレストランに気後れし、若いアベックに対しては「クヌヤロー」と地団駄踏んで、寒風の中、モツ煮込みをアヂアヂ言いながら食う方の人間になったのだ(モツ煮込みという食べ物を知るのは、それよりずっとずっと後のことになるのだけれど)。
 そうだ、どうも俺が昔から若者(自分の年齢から相対的に、ではなく、絶対的に)を苦手に思っていたのは、そのあたりの影響が強いのかもしれない。ほかに、東海林さだおと同レベルで影響を受けたのはいしいひさいち。鎌倉で育ったお坊ちゃん(そうだろうか?)が、なぜか地方競馬場の地べたに心底落ち着く理由、そのあたりかもしれない。
 で、この『孤独のグルメ』。ショージ君と同じ世界の話なのである。主人公はマチョの貿易商であって、ときにはいけ好かないオッサンをしめあげたりもする。女優と付き合ってた過去なども語られる。設定上はあからさまな小市民ではない。ないのだけれども、やはりやっていることは小市民であって、どこか居場所のない人間なのだ。世間のニッチを好む人間なのである。
 そこに絶妙のバランスがあるのかもしれない。自由人だからといって、立ち飲み屋で朝から酒をかっ食らってるのが習慣になってるオヤジではいけない。小市民の埒外である。かといって、九時五時仕事に明け暮れるサラリーマンであっては、行動の範囲が狹められる(それはそれで、社食のカレーライスの肉量やそば屋におけるかけともりの葛藤など、いろいろな局面が現れるはずだけれど)。それに、あまりにもしみったれたサラリーマンでは、やはり食の自由がない。深夜思わず1,800円使ってしまっても、金額を気にするようでは少し主題がずれてくる。むしろ、少しオヤジの理想像的存在が主人公、ここに妙味がある……のかな、と。
 で、これがまた多くのファンを得ているという現状を考えるに、世間がオッサン化しているのではないかと思う。ショージくん的四畳半レバニラ炒め社会になってきているのではないかと思う。これも、小泉失政のツケか。しかし、ナウなヤングはとってもポジティブな社会より、俺はそういうしみったれた世界の方がいい。世界の美食・珍味に興味がないわけじゃあないが、牛丼屋の一食にどれだけの面白さを見出すかって方がいい。
 そして俺は、いつかの冬の日、すぐそこの寿町に転がっているところ、役人に投げつけられた乾燥米の袋を開ける力もすでなく、うつろにパッケージの文言を追って、「水で戻すという手もあるのか!」とか、すごく下らない驚きの中で死んでいったりすれば、人生及第点と思うのだ。