南氷洋を紅色に染めて

goldhead2008-01-24

 ここのところよく目にするのが捕鯨問題を巡るニュースだ。捕鯨問題はいろいろの要素を備えていて、それが複雑に絡まり合って泥沼になりがちのように思える。俺などはまず、野生生物を絶滅させてはいけない、というのはおおよそ反対のないコンセンサスであって、自分の中にも保存主義みたいな心持ちがあって、それはゆるがぬ。
 それでは鯨は絶滅が危惧されるのか? ということになる。あるいは、あの鯨はどうで、この鯨はどうだということになる。これを判断する能力は、俺にはない。こちらの言う資料を見ても、あちらの言う資料を見ても、算数のできない俺には野生生物をめぐる統計データの見方などわからぬし、高卒の英語力では元データを読むどころか、どれが元データなのかわからぬ。こうなっては、鼻先に突きつけられたものを信じるか信じないかの運任せの二択であって、あるいは「信じたいものを信じる」というところに陥るのも面白くない。見る人が見れば、本当は1:9の差があるのに、敵方の策謀にはまってウロウロしている能なしということになるのかもしれないが、能なしなのだからしょうがないし、また逆の方の人間が同じように俺を見ていたらどうするというのだ。ここは5:5で取って相殺するよりないだろう。とはいえ、相殺できるものでもないので……、絶滅が危惧される鯨はおるし、そうでもないらしい鯨はいるらしい、といったところにしておこうか。
 とはいえ、どっちもどっちで知らぬ存ぜぬというのも面白くない。いずれかに与するか、どれだけ与するか、整理を付けておいて悪いこともないだろう。どちらかを選んだからといって、捕鯨船に乗り込まねばならぬこともなければ、抗議デモに参加しなくてはならぬということもない。脳味噌の絞りっかすをさらに絞って考えなければならん。
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 日本の食卓に鯨肉は必要だろうか。これだけいろいろの肉などが溢れておって、それでさらに鯨肉が必要だろうか。どうも必要ではないように思える。「輸入肉、そして国産畜肉にしても輸入飼料に頼っている現状は危険だ。食糧自給率を上げるために捕鯨は有効だ」という意見もあるかもしらんが、しかし、他国に輸入を頼れないような事態となれば、捕鯨船団をはるか南氷洋に派遣できる余裕があるのだろうか疑問だ。あるいは、そういう国家存亡のときにどうしても鯨肉が必要となれば、そのときは護衛艦隊つきで遠征に出ればいいのだ。
 その距離も問題だ。日本の裏庭で獲るならともかく、はるか彼方まで行って、よりにもよって捕鯨で心を害される人々の住む国の近くでやるというのもいかがなものか。領土、領海ではないにせよ、意識としての遠近は決して無視すべきでないと信じる。距離的に見て日本のそこらの海でやっていることに口だしされるならばいい気はしないが、その逆をやって何か主張するというのは難しいのではないかしらん。
 また、「かの国はそうかもしらんが、この国にはこの国の伝統がある、文化がある」という意見もあるかもしらん。しかし、わざわざ南氷洋まで船団を組んで捕鯨しに行くのが伝統文化かというと、どうも違うように思えてならん。江戸時代の荒くれ漁師たちが、銛を片手に船を漕ぎ漕ぎ地球を半周していたというのなら、もうそれは徹底的に保存すべき世界文化の頂点と思うが、そうではないのだ。だいたい、商業捕鯨がいったんないようになって、給食や食卓から鯨肉が消えて、それで日本人のアイデンティティやメンタリティが損なわれたとでもいうのだろうか。生まれてこのかた数えるほどしか鯨を食っておらん俺は、日本人たる資格ないのだろうか。
 無論、たとい戦後生まれのものだろうと、平成生まれのものだろうと、立派に日本文化たり得るものも有り得よう。何も「日本語」であるとか、「米食」であるとか、「家の中では靴を脱ぐ」であるとか、そこまでハードルが高くなくても、守るべき文化や伝統になりうると信ずる。が、しかし、戦後にパッと生まれてパッと消えて、それでいてとくに皆へいちゃらに暮らしているようなものについて、それもまた文化ではあるが、保持・保存するものとしては優先順位が低いように思える。その歴史と価値を認めても、じゃあ今やるのかどうかは別の話であって、炭鉱の文化を守ろうという話もないだろうということだ。
 そんなあやふやな文化論で防衛しようにも、わざわざ他国人の感情を逆撫でして、日本人に悪いイメージを抱かせて、なにか得になるとは思えない。鯨も人間にとって有効だが、友好的な人間の方が人間にとって有用なのは言うまでもないことのように思える。
 以上のような考えをしてみるに、どうも絶滅・減少の問題を除いて考えてみても、捕鯨に合理的な理由があるようには考えられない。
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 と、ここでこの手元に捕鯨をめぐるアンケート用紙があるとしよう。「Q.調査捕鯨には賛成ですか?」とあれば、迷わず「○」。「Q.商業捕鯨を再開すべきだと思いますか?」とあれば、ぐりぐりの筆圧で「◎。“調査”捕鯨のおためごかしなんかいらん! 堂々と獲ってくるべきだ! 日本国捕鯨万歳! 日新丸万歳!」と書くだろう。……つじつまが合わぬ。
 自分の考えを整理しようにつじつまが合わないというのはよろしくない、閣内不一致だ。鯨ごときの問題で主人格が更迭されてしまってはおもしろくない。心と脳の南氷洋に漕ぎだして、問題点に解決の銛突き刺して腑分けせねばならん。
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 おそらく、考えて出た結論に棹さすものといえば、感情にほかならん。感情はときに己が生命に直結する利害についての判断を誤らせるほどの存在である。だからといって、人間が人間たるのも感情が感情たるがゆえであって、理性と感情は天部とそれに踏みつけられる邪気のごとき関係ではないと信ずる。ゆえに感情を解きほぐしてその動きを見ねばならん。手の神経が勝手に捕鯨賛成を書くわけでも打つわけでもない。
 感情といえば、まず捕鯨反対の心情についてさぐってみてもいいやもしらん。反反捕鯨派は反捕鯨派について「感情論」と批難することを多く見受けられる。反捕鯨のすべてが感情論などとはとうてい考えられぬが、そこに感情がないわけもない。
 とすると、どうだろう。たとえば、鯨は可愛いか、知性を感じるか、食料とするに残酷に思えるか。これはもう、思えないの一点張りである。猫や犬、あるいは牛や豚にそれらを感じられても、鯨についてそういう感情は湧いてこない。言うなればでかい食肉の塊である。むろん、ホエールウオッチングをしたり、捨て鯨の子の拾ったのを、校舎裏で幼なじみの女の子と先生に隠れて飼育するなどという体験をしてみれば、親愛の情がわくやもしらん。しかし俺はホエールウオッチングなどという金持ちの遊びをする余裕はないし、子鯨が捨てられているのを見たこともない。
 鯨の実感がない。むろん、そんな実感、実体験なしに、書物や映像を通じて心情を抱くこともあるだろうし、それは立派な感情であって実体験必須などということは間違ってもない。ただ、俺にはその後者の体験がなく、また、鯨に関するあれやこれをちらほら見かけたところで、そう思ったことはない。だいたい、俺はもっと身近な陸上のほ乳類を食って生きているのだ。子牛や子豚のかわいさを知らぬはずもないし、だが、その上で彼らを食って生きている。
 他の生命を奪わねば生きられぬという、生命そのものの矛盾。そして、命の重さは平等ではないところを引き受けて、折り合いをつけて生きている。俺は自分で鳥も牛もしめられないであろうし、屠殺場にただ立っていることすらできないかもしれない。ミート・イズ・マーダー、手を汚さない殺人、だが俺はその卑劣を引き受けて肉を食う。全ての生き物の命の価値が一緒だなどという悪平等(「鯨を食うなというなら、牛も食べるな」という意見は、悪平等に陥ってると思う)でもなく、かといってあらゆる命に本来意味はないのだなどという虚無にも陥りたくはない。彼と我、彼らと彼らのなかに区別があって、ときに植物の命を絶つことへのsentimentを抱きながらも、その矛盾をはらんだありようと折り合いをつけて(欺瞞といいたければ言えばいい。血を見ないという欺瞞ごとだ)、肉を食わないで生きていけると知ったうえでも、やはり俺は肉を食う(単なる開き直りと言われても、その通りだ)。
 話は逸れてしまったが、そのありようの中にあって、俺の中の鯨の価値といえば、もちろんそれはいつでも搖れ動き、ポジションを絶えず変えつづけるものでありながらも、おおよそ「でかい魚(可食)」という概念あたりを泳いでいるのである。ゆえに、自分の中で「鯨を殺しちゃいや!」という強い感情は、まず湧き起こらないのである。正直言って、牛や豚の屠殺をつきつけられて、「これでもあなたは牛や豚を食えるのか?」と言われれば心情がゆらぐ。が、魚は魚じゃないか。むろん、植物や魚類や貝類(俺は小さなころ、潮干狩りの貝が可哀想だといって、親に頼んで翌日浜に行って海に還したことがあるくらいだ。横でにはほかの潮干狩り客がいたけれども。そして今俺は、その俺を笑う気持ちは微塵もない)に対しても俺は悲しいし、悪いと思う。ただ平等の中であるがゆえに、クジラを特別視できないし、ほ乳類か魚類かでいえば、魚の方が瞬間反射的な感情の湧き上がりというものに欠くといえる(むろん、どこかの養豚場の豚と、飼っているドジョウを比べた場合、後者に思い入れが出るわけで、それがすべてを規定するわけでなく、目安)。アジやイワシなどの魚が可哀想なのと同じく、クジラもかわいそうで、同じく、食えるのだ。

 ……えっ! クジラは魚じゃなかったの? はじめて知った! というわけで、いつまでも自分の心情迷路をうろうろしていても、デイビー・ジョーンズに捕らえられるだけである。いろいろな意見を見る知った方がいい、それを見て感情が動くかどうか見た方がいい。グリーンピースの意見などを<つづきはまた書く>