先日、東海林さだおと赤瀬川原平の対談集を読んだ。そこでこんなやりとりがなされていた。その感想文でも引用した箇所だが、また引用する。
赤瀬川 でも、そうはいかなかったんだよね。この世の中は。確かにつくったときの計算が間違ったのかもしれない。
東海林 まずいよねえ(笑)。牛だって可哀相でしょう。
赤瀬川 ねえ。僕らが生きるために殺されて、一生が終わっちゃうんだもんね。
東海林 できることなら、なるべく少ない殺生で生きたいね。
赤瀬川 うん。もし僕が牛だったら、あるいは人間が食料にするなにか巨大な生きものだったら、やっぱり「こいつの一食のために俺が命を落とすのはもったいない」って思うもん(笑)。
東海林 殺される方の論理ね。牛なんか、生まれたときからそういう一生の生活設計ができてるわけでしょ。
赤瀬川 本人は知らないけどね。
東海林 人間に食べられれるために生きている。よく考えたらこんな罪はないよ。
赤瀬川 僕たち、もう相当な数の生命を奪って生きてきたんだよね。
東海林 タタミイワシなんか……(笑)
赤瀬川 あれは大量虐殺だよ(笑)
この本は2003年に出版された本である。赤瀬川原平はすでにこの世を去っている。とはいえ、ここになにか現在にも通じる重要な要素が含まれているように思えてならない。
ベジタリアンやヴィーガンといった人々がいる。ミート・イズ・マーダーと歌ったバンドもいる(それもずいぶん前の話だが)。まあともかく、肉食を否定しようという思想がある。
と、そんな最近の言葉を持ち出さずとも、肉食を避ける思想は、古い伝統宗教のなかにある。仏教だって基本、不殺生戒だったりする。
というか、この日本だって、あくまで「肉食いいのかな? 悪いのかな? うさぎくらいは食べていいか、一羽、一羽」的な感じで長いこと続いてきたわけだ。
むろん、肉食を禁じるのは思想的、心情的側面ばかりがあったわけではなかろう。たとえば植物が生育するのに適していない地域では、草をたくさん食べる獣を買うことが、人間にとってメリットがなかったということもあるはずだ。
とはいえ、おれはセンチメンタルな人間だし、おそらく東海林さだおも赤瀬川原平もセンチメンタルな人間なのだし、可哀相という気持ちが湧くわけである。しょせん、お気持ちではある。
とはいえ、お気持ちのなにが悪いのか、という気もする。「おれはトンカツも牛丼も食うけれど、おれのために生きものが殺されるのはちょっと抵抗があるかもな」くらいの気持ちは抱く。
べつに、畜産業を営む人を悪く思ったりはしない。おかげで美味しいトンカツや牛丼を食べることができるのだ。おれが毎晩食べている蒸し野菜の中で、豚肉が主役的存在であるのも確かなのだ。
それでも、なお、全否定でもなく、全肯定でもなく、「できるだけ殺生は避けたいよな」という思いはあっていい。それが欺瞞であってもかまわない。
なんというのだろうか、ヴィーガンの中の極端な思想と、そういった極端な思想を極端に否定しようという、その中間はないのだろうか、ということだ。
そこに、「タタミイワシ」なんて大量虐殺だよ(笑)という姿勢があっていいんじゃないのか、と思う。あくまで(笑)付きだ。
別にこの国は肉食文化を伝統としてきたわけでもない。かといって、そこまで戒律的なものに縛られてきたわけでもない。その中間あたりだ。極端に走らなくてもいいんじゃないですか、ちょっとお茶でも飲んで。
もし、全人類が肉食化したら、地球環境が保たない、みたいな話もある。そのあたりはよくわからん。よくわからんが、もし大豆が肉に代わるのならば、代わってもいいんじゃないのかという気もする。
え、動物と植物の生命を差別するのか? そこんところは、そりゃ、やっぱり別物だろう。それこそお気持ちの問題だが、たとえば牛肉と猫肉、犬肉があって、そこに差があるかというと、やはりあるのではないか。そういった差別心の是非はともかく、やはり差はある。おれは植物を愛するが、やはり牛や豚と違いがあるかないかといえば、あると答える。
所詮はお気持ちだ。だが、人間の法もお気持ちがなければできていないのだろうし(動物の愛護及び管理に関する法律とか)、そこんところはなんかある。生命は平等かと言われたら、そうではないのだ。おれは蚊を殺すが、蜘蛛は殺さない。そういう多数決の末に、法ができたりする。
個人的には、豆が原料の人工肉などというのはSF的興味で積極的に食べたいと思う。人工培養肉などといえば、さらに興味は高まる。
まあ、おれについては、そんなところだ。おれは今日も肉を食べたし、明日も食べるだろう。ときには魚を食べるし、もちろん野菜は食べる。生物と植物の間に違いがあるのかと問われたら、なんとなくあるんじゃないかな、と答える。べつに曖昧でいい。全否定にも、全肯定にも走らない。日和見主義と言われたら、それでもいっこうに構わない。
追記:信仰や思想によってヴィーガンや菜食主義者であることを選択した人に、「肉食ってもよくね?」という意図はありません。逆に、反ヴィーガン的な意見がちょっと行き過ぎてるように見えることがあるので、なんとなく、「そこまで言わなくてもよくね?」という感じです。
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