肉の食い放題が日本を救う

 藤原新也の『西蔵放浪』にこんなことが書いてあった。肉食などとはほとんど無縁のチベットの山奧で生きる僧から見れば、肉食をする人々はわざわざ苦行をしているように見えるようだ、と。モリッシーに言われるまでもなくミート・イズ・マーダー。皮を裂き血を抜き、腑分けして切り刻み、おおくはわざわざ火を通さねば食えぬ。食ったら食ったで体によい要素ばかりというわけではない。そうまでして生き物を殺すのか。
 もちろん、野菜を食うことも命をいただくことには違いない。しかし、全ての生命は生命として平等ではあるが、人肉を喰うのもトマトを喰うのも同じというのは悪平等に陥っている。体調が悪く、しばらく肉食を断っていた時期があってよくわかるが、妙な攻撃性、餓えといったものがすとんと抜け落ちるような気になれる。肉を食うからさらに肉を食いたくなる。ニコチンが欠如するからニコチンを摂取したくなる、似たようなものだ。そもそも日本人はそれほど肉など食ってこなかった。食肉に要するコストを考えるに、食糧供給上の理由からも、環境保護の視点からも、日本人は肉を断つ方向に向かうのがよいのではないか。思えば文明開化このかた、肉を食って肉食いの連中に伍することばかり考えて走ってきた。ここらで、そういった争いから足を洗い、より高次の精神立国に向けて歩を進め、独自の文化的国家を築くべきではないのか。
 と、常々思っている俺は昨夜、しゃぶしゃぶ食い放題に行った。珍しく人との外食である。豚ロース、豚トロ、そして牛ロース。肉三種でやはり豚メーンの店だけあって豚がうまい。さっさと湯通しすれば白く染まる豚トロの、口の中でさわやかに溶けていく感触。ぽん酢ダレ、ごまダレどちらとの相性もよく、ときおり食べるご飯もおいしい。肉、おかわり、肉、おかわり……。
 そろそろ皆の疲れも見えかけてきたころ、水を持ってきた店員が「肉おかわりいかがですか?」。日ごろの貧困による節食の反動で、今や強欲の獣となっている俺、「お願いします」。「三つですか?」、「えーと、三つで」。これが間違いのもとであった。いつまでもさくさく食べられると思っていた、薄い薄い肉。これが今や鉄アレイのような重さの肉塊となり、とろけていた脂は鼻をつく悪臭でしかない。もう、目一杯だ。俺は席を立って、ちょっとトイレへ。トイレの中、小便器は清掃中で、個室は全て客が入っていた。俺はどうしたか、回れ右して廊下を歩き席に戻る。そうだ、そもそもトイレに用はなかった。単に立って歩いて、流れを変えたかっただけだ。さあ、席について……、だめだ、何も変わらない。間をおいたためによけい辛くなった。しかし、しかしだ、ただでさえ物を残すというのは心理的抵抗、ましてや食い放題で注文したものを残すなど、今後人間の顔をして社会生活をしていく自信を失う。日陰者に陥るラインである。他の二人はもう、食えないと他人事、肉は食えないけどなどとうどんを押し込んだりしている。なんだこの修羅場は、地獄は、これは地獄だ。地獄に陥った畜生、生きながらにして地獄、地獄の責め苦。ええい、ままよと残り肉を放り込み押し込んだ俺の栄光。そしてなぜお前らはデザートのアイスを食う余裕があるのだ……。
 かようにして、肉食は悪行であり、食い放題などは人間を地獄に落とす鬼の罠といわざるをえない。この、食い放題などという人間を畜生に堕とすものが、この文明国日本に必要なのか……。
 いや、むしろ必要である、と俺は主張する。ともすれば安楽と怠惰の生活を送る我ら現代人にとって、精神的・肉体的苦行を己に課す人間は少ない。そこで、月に一度、おそらく二十九日などがふさわしいと思われるが、そこで皆、しゃぶしゃぶなり焼き肉なりの食い放題を行ずればよい。腹八分目などとは言わぬ、餓鬼を腹に宿した豚のごとく喰って、喰って、喰うのである。八分が十分になり、さらに十二分、十五分と喰って、喰って、喰え。嘔吐感と嗚咽を押さえ、地獄の業火に焼かれながら肉に火を通せ、喉に押し込め……。この結果、どうなるか。「肉はもういらない、肉など御免だ」と体が覚え込むのである。それにより、後の一ヶ月は自然と肉を忌避し、肉食は少なくなろう。そのままその楽の境地に快さを覚え、菜食主義者になるもよし、また次の二十九日に地獄の修業をするもよし。しかし、肉の苦しみは増し……、やがて日本国は菜食への道を歩み、夷の牧畜文化を排撃し、葦原の千五百秋の瑞穂の国としての太平楽を取り戻すであろう。すなわち俺が言いたいのは、月に一度くらい肉を食いたいだけ食いたい、ということなのであった。
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