チベット7

グレートジャーニー

 グレイトジャーニードリームジャーニーがよくごっちゃになる俺だけれども、関野さんが自転車(GIANTか。覚えておこう。なぜ?)を漕いでいればグレートジャーニーだということくらいはわかる。なぜかあまり今まであまり興味はなかったが、興味真っ最中のチベットということで刮目して見た。おお、すごい、山の上だ。すごい山の上に人間が生きているというのはいい。行ってみたいと思う。細かなことを抜きにすれば、俺は山の上に住みたい。少なくともその方向があって、海辺の暮らしというより、山の方がいい。安心できる。育ったのが片瀬の山という山かどうかわからないような山ではあったが、江ノ島の方を見下して暮らしてきたところもあって、その郷愁かもしれない。今のアパートも山の中腹……というよりは崖、斜面に無理矢理建っているようなところがあって選んだ。引っ越しにあたって、平地の道沿いのアパート、マンションなども見たが、ぜんぜん生きていける感じがしなかった。だから、遠い祖先のうちの誰かは山の方から来て、途中で山系インブリードなどもあったかもしれず、俺はチベットが恋しい。ぼんやりとした何かがある。
 ……とか言いながら、ちょっと海の方へでかけて、ボケーッと海見て帰ってきたら「やっぱり俺は腰越の海を見て育ったから、海の近くがいい。遠い祖先はポリネシアから北上してきたに違いない」などと言うわけだけれど。いや、しかし、そのハイブリッドっぽさこそがこのアジアの東端に住む我々である。と、言うわりに、北海道生まれの俺、北の寒い方にはあまりピンとこない……って、北海道もたまたま親が赴任していただけで近めのルーツとは関係ないのだけれど。
 しかしたとえば、日本から一歩も出たことがない俺ですらこんなわけのわからぬルーツ論に妄想の花を咲かせるあたり、たとえば明治のころの偽史にとりつかれた先人たち(彼らは偽史などと思っていなかったわけだけど)が、満蒙や南方で啓示的に何かを感じてしまうのもわからぬでもない。なにせ、DNAが裏付けていることなのである、って言うのも疑似科学なんだけれどもね。
 それはともかくグレートジャーニー、ラオスあたりの村の祈祷師のエピソードなどはたいへんよかった。雨マジかよって思ったけど、それを含めてよかったな。正月の儀式のためにお坊さんを探すとか、なんかドキュメンタリでもフィクションでも、そのままどっかのアジア映画祭なんとか部門とかにありそうな感じでさ(どこのアジア映画祭も見たことないけど)。そして川を下って南へ南へ。画面で見る限りの街や人の雰囲気がかわっていくのが面白い。そういう面白さでは、トルコから日本までアジアを横断した藤原新也の『前頭葉か移動』、ATOKは俺に喧嘩を売っている、『全東洋街道』などを思い出す、というか、引っ張り出して走り読みしたくらいなんだけれども。
 ただ、グレートジャーニーは最後が不満だった。朝鮮半島だ。なんで何万年スケールの話をしているのに、急に近現代史の話になるのかという違和感。北の方についてはさまざまな制約があって、取材対象も内容も限られ、他の国のように人々に接するわけにはいかないのはわかる。ただ、韓国くらい、韓国の田舎の方などの風景とか人々の普段の表情とか、そのへんを見せてくれてもよかったんじゃないのか。せめてこの番組くらいはさ。朝鮮半島というと、何が何でも近現代史というのでは、さすがに厭いてしまう。こんなこと言えば、左には「日本人の背負った罪から目を背けたいネトウヨの卑怯な妄言」と突き上げられ、右からは「ありもしなかった妄想について批判を避けているサヨク」と叩かれそうで、俺はもう逃げるしかない。
 ……というように、ぶつかり合いなどから逃げて、ここまで来ちゃったのが日本人の遠い祖先、という妄想。アフリカからひょっこり出てきて、アラブの砂漠あたり、「なんかあいつら、この苛烈な砂漠で生きていけるって息巻いてるけど、あのスパルタにはついていけねえや」、とかから始まって、「ここは土地も肥沃だけど、悠久だかなんだか知らんが、あののんびりっぷりにはついていけん、もうちょっと行こう」、「さすがに空気薄いし、寒いし、ここで生きていくの無理っぽくね?」、「遊牧生活も悪かないけど、もうちょっと腰落ち着けたいわ」、「そこらの海から魚とりほうだいだけどさ、なーんか落ち着かないよね。もっと陸のある方ねえの?」、「なんか広すぎて落ち着けないな」、「感情の起伏が激しいやつって苦手なんだよね」……と、わらわらとはぐれ者たちが集合してきて、「あれ、行き止まりじゃん。まあ、ここでいいか」みたいな。だから、なんかこれといった強烈な民族性もなく(鏡?見えません。だいたい他民族他人種についても、俺はティピカルなイメージしか持ってないし)、文化、文明が入ってきたらそれなりに対応できて、弾き出されてきたから基本弱腰で、行き止まりだからその場に居合わせたもの同士はよろしくやる方向で、ときどき山っぽかったり、海っぽかったり、いきなり強気になったりと多重人格的で、それでルーツについて真に落ち着くところが見えないから、いきなり汎アジアに発想が突き抜けちゃったりして、ここにつらつら書いたのは時代も何もないろくでもない妄想だから相手にしない方がいいわけ(アイヌ民族は……先にいたのだろうけど、やはりアフリカから旅をして来た先客、なのだろうか。どのくらいルーツ差時間差があるのだろうか)。
 でも、なんとなく日本人はルーツ無しのような気がする。一系の大君を光と永久に戴いたところで、その大君成立以前のやまととも名づけらるるその前の前の前のことであって、しかし、たとえばインドやチベット、アラブの、アフリカのその他いろいろの人たちがどこまでルーツに核心と安心があるのかはわからず、そもそも日本人のほとんどは気にしていなくて、俺だけなんかそんな風に思ってるだけかもしらない。しかし、前の前の前の前のことは気になるところであって、じゃあ神が光あれって言ったときにそれを見ていたのは誰だ? って、それはわしじゃよって鈴木大拙なら言うのだろうけど、その鈴木大拙曰く日本的霊性は民衆に仏教が根付いたところから(空海あたりは単独のスーパースターだからだめだって)だとか言うので、仏教を受け取れる土壌があったという点において日本とチベットはやはり似た点があったのかもしれず、あるいは仏法に生きるには俗が恋しくて山を下りたのが我らが遠い祖先(はい、これもアナクロニズム)かもしれず、されば後ろめたさもあって遠い仲間を思う気持ちでチベットを案じる。無理矢理チベットに話を戻して終わる。

全東洋街道(上) (集英社文庫) 全東洋街道(下) (集英社文庫)