丼の深淵、偽りの帝国/ゼンショーグループ二品

すき家 まぐろユッケ丼

 肉を食う気はしない。それでも丼飯を腹に入れたい夜。すき家のまぐろたたき丼、いや、寒の戻りのこんなときには、わかめスープつきのまぐろユッケ。注文してしばらく、牛/豚用ではなく、カレーやとりそぼろと同じ器で運ばれてくる。そこで目にしたもの、卵セパレータ。俺が割らなければいけないのか。割って、黄身と白身をセパレートするオペレーション。卵はうまく割れる。セパレータの上に輝く黄身。しかし、そんな幸福は桜花のごとく儚く散る。目の前で深淵に吸い込まれていく黄身。再び卵は対なるものが統合され、アンドロギュノス的原初形相をあらわす。俺はこの錬金術的失敗を悟られまいと、器の上に卵を丸ごと投入。透明な白身がどろりと白飯の上に流れ込む。あわてて米を掘り返し、黄身を崩しつつ、まぐろもかき混ぜる。恥ずべき青春の粘液は今や覆いかくされた。あたりを見回すと、大人たちが丼飯を喰っている。俺の恥ずべき失敗は今や世界中の人間が知るところであるにもかかわらず、世界は平穏を保ったのかのように装う。この偽りの帝国に震えながら、俺は急いで、かつてまぐろユッケ丼であったものをかきこむ。スープも、飲み干す。牛丼にしておけばよかったと、思う。

なか卯 牛とじ丼

 俺には苦手な食べ物が二、三あって、カツ丼がその一つだ。一年に一度くらい食べて、やはり苦手であることを確認する。サクサクであった衣は卵の粘性に穢され、甘ったるく油っこい物体は米とともに俺をうんざりさせる。親子丼はまだマシだが、それも進んで食べたいとは思わない。では、牛とじ丼はどうなのだろう。すき家派の俺は党派同志たちの目を盗み、なか卯に入る。しわくちゃの千円札を食券販売機に入れ、大きなボタンを押す。このボタンを押した瞬間から、機械仕掛けのように調理は始まっている。……はずなのだが、食券の半券を切り離す店員、「牛とじ単品でよろしいですね」などと言う。誤認防止のシステムに改変されたのか、すべては偽りにすぎないのか。
 牛とじには時間がかかる。飯の上に煮付けられた肉を載せるだけでは済まない。この点において、店あるいは店員の技量に左右されるメニューであると言えるかもしれない。そんなことをつらつら考えていたら運ばれてくる牛とじ丼。見た目の印象は、思っていたより黒い、というもの。思わず店内ポスターの写真を見る。写真も似たような色合いだ。納得して俺、少し多めに紅ショウガを盛りつける。甘ったるいことを予想してのことだ。
 が、それは裏切られた。しょうゆ方向に味が濃いのである。おそらく、牛丼用に味付けされた肉を卵とじするさいに、さらに味付けが加わっているのではないだろうか。思ったより、味が濃いのである。本来ならここで、味の濃さを中和し、さらには善なるものへと反転させる白米装置が作動するとこだ。しかし、卵とじされた種からしたたり落ちるおつゆによって、白米の処女性は蹂躙され、今や身も心もつゆの色に染まっているのである。あらゆる神性はこうやって失われていくのだ。牛とじ丼には、楽園を追放された人間の罪の味がある。
 牛とじ丼を食い終え、茶を飲み干す。ここからなか卯で取るべき行動は一つ。席を立ち、店を出る。食券システムにより、支払い行為はすでに終えているのである。しかし、牛とじ丼によって咎人の意識に苛まれたばかりの俺には、それがいっそう重くのしかかる。飯を食い終え、金を払わずに、店を出る。一般にこれは食い逃げ、無銭飲食の罪である。俺は店員に「食べ終えましたよ」という動きを見せるべきなのか、それとも本当に盜人のように音もなく消えるのが正しいのか判断つきかね、逡巡の挙げ句逃げるように店を出る。背中に「ありがとうございました!」「またお越し下さい!」の声が突き刺さる。これがナザレのイエスを貫いたロンギヌスの槍であることは論ずるまでもない。
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