『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の感想および考察未満の何か

※以下ネタバレ上等
 ぼくのゴールデンウィークの宿題は、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 特装版 [DVD]』と『エヴァンゲリオンの夢―使徒進化論の幻影』を見比べることだって、ぼくが決めました。そういうわけで、気合い入れて見るぞ! となったんですけれども、なかなか難しいわ、これ。だいたい、この大瀧啓裕の大著がテレビ版を仔細にといったところで、テレビは26話、新劇場版は6話+アルファ程度、さすがにこの本もそこまでは詳しくない。それに俺は、アニメというか映画というか、映像作品をそんなにじっくり見たことなどないのだ。どう見ていいかわからん。

 というわけで、とりあえずDVDを観た感想を書いておこう。ともかく感じたのは、「案外駆け足じゃないな」というもの。映画館での初見時は、エヴァンゲリオン知らずの連れもいたこともあり、また自分自身ひさびさに観たものだから、「すっごい駆け足」感が強かったのだ。いや、もちろん駆け足感がそもそも強く、二度目までにかつての映画など見直した俺の方が変わった、というのは大いにある。だけれども、たとえば『エヴァンゲリオンの夢』などのストーリーラインと比べても、切った貼ったでスムースになったという印象。作画や音楽、音の見事さについては言うに及ばず。画質については心配するところもあったけれど、映画館的ノイズ感がそれなりの味になっている。おまけの方の超クリアなのを見ると「おおっ」と思うが、あんまり明るすぎるのもどうなのかわからない。やがてBlu-rayなどが出たらそれはそれでいいのだろう。ただ、最近テレビを新しく、大きくした俺の感想としては、これで十分ですよ、と。
 特装版のいいところは、おまけディスクだろうか。おまけといっても、登場人物/場所/兵器名のテロップ入り一本まるまる入ってる。字幕というから、台詞の字幕が全部出るのかと思ったがそうではなかった(台本は台本で入ってるけど)。そして、CG制作過程の紹介。これ、なんかインタビューとか制作現場とか映ったりしたら、興ざめじゃねえかと思ったんだけど、さすがはエヴァのパッケージングのなんたるかというところで、音楽に乗せて作業過程が次々に映し出されるばかりであって、これは見事だと思った。

 それで、アニメ版や前劇場版との差異について。まず感じたのは、この本の影響じゃあないだろうけれど、この本でさんざん不備を指摘されている時系列(○○日後、など)、そして使徒の天使名について排されているってこと。とくに使徒の名のとくに意味のないことについては、使徒名の種本和訳者たる著者の言うとおりかとも思う。あまり深く意味はない、ようだ。問題は、使徒の順番だろうか。
 そこでいきなり核心の「第2使徒」と明記(テロップ版)されたリリス。この本によれば、第2使徒が欠番なのは、アダムとリリスが同時に生まれたもの(『創世記』……男と女とに創造りたまえり)ゆえに……って、なってっけど、ちょっと調べたらゲームの方でリリスが第2って公式設定されてたんじゃん、前から。つーと、それは問題じゃなくて、やっぱりミサトさんが知ってる、ことかな。本の方で繰り返し指摘されていたのは、ミサトが最後まで限られた情報からの推測で動いていて、結果として錯乱した行動を取っているって。となると、今回のミサトさんは、その役目を降りて……ってとこなんだろうかね。
 それと、あと、別々の使徒が同時に現れないのはなぜか、って話もあったっけ。カヲル=ケルーブがアダムに提供された形相をまとい、次々に……、と。それゆえに、使徒の種類がさまざまでも「我らの母なる存在」と、「母」(=アダム、両性具有)が単数だったと考察されてるんだが……、あれ、予告だとADAMSじゃん、複数じゃん。これはすごいひっかかるところじゃねえのって。だいたい、もうカヲル君がカヲル君として目覚めちゃってるじゃん。こりゃあどういうことだろう。このままでは、第7の使徒渚カヲルとなってしまうのかもしれない。しかし、ADAMSであることから、複数同時も可能、なのかしらん。どうなってるんだろう。あと、碇レイ、綾波シンジのところなど、この両者の対の感じ、あるいは合一感から『聖なる侵入』のあの二人のようなあれが強まるのかとか、しかし、わからん。まあええや。
 やっぱり、わけがわからん。いろいろ見ている内に、「この本の考察どこまで有効なの?」という疑問も強くなってきたりする。そうなると、やっぱり全部オカルト知識を有する少年・碇シンジの夢、という怪しげなところにも飛びつきたくなる。この本でもさんざんこの可能性について言及があり(視点や細部設定の不一致を指摘しているけど、それは制作上の都合、ミスでは?という感もあり)、たしかに旧劇場版の唐突とも思える第2新東京市立第三中学校での演奏練習シーンなどを考えれば、などとも。すると、今回のエヴァもまた少年碇シンジの脳内戦争、セラピーの一つ。前回は17回目の治療もしくは発狂、今回は27回目。そういえば、昔、見沢知廉だったか、中島らもだったか、電話で「第○次世界大戦がはじまった。今度の戦いは手強そうだ……」と連絡してくる友人がおり、それはどうも彼が精神的疾患がひどくなり、入院するたびに○次の数字が増えていくとかなんとか、そんなのあったっけな。そうすると、予告編の「壊れていく碇シンジの物語」という気になるセリフにも納得がいくような気がしないでもない。街がCG化でスケールアップしたのも現実時代の変化、監督が「箱庭的でオーケー」というのも、決して作品が現実を描いていないというのならばオーケー。最初に初号機の右手が勝手に動かなかったのも、設定上の不都合を修正したからってこと。
 ……などというのは安易な夢オチ的であろうか。しかし、このエヴァに限っては「ドラえもんは植物人間のび太の夢」的であったとしても、そこに人間の内面世界、ユング的な人間心理の根本を探る何かがあって、人間と世界のアナロジー、人間心理にダイブしていったら神話があった、まさにそれこそが一つの物語として十二分に面白く成立しうると思う。すなわちエヴァの外に世界があっても、損なわれないような気がする。また、それを誘うところにこれの怖さがあってたまらんと思うのだけれど、どうだろうか。
 と、まあ変な方に逃げてみたけど、なーんとなく「逆だ」って感想は薄くなったような気がしないでもない。むしろ、前作にもっと整合性を持たせてやり直しているのかもしれない、そんな印象もある。表向きは似ているけど、「これが違う」「あれが違う」だけれども、底の方のベースでは前作通り、というような。って、でも、「破」でどうなることやらってなると、そうでもないかもとか。ああ、もう、せいぜい楽しむぞ、くそったれ。

関連______________________