さらば追憶のタヤスツヨシ

 95年日本ダービー(GI)を勝ったタヤスツヨシ(牡16)が29日午前、繋養先である北海道日高町ブリーダーズスタリオンステーションで、放牧中の事故により右大腿骨を複雑骨折し、安楽死処分がとられたことがわかった。

http://www.netkeiba.com/news/?pid=news_view&no=29973&category=D

 タヤスツヨシはもう16歳にもなっていたのか……。私が実際の競馬に興味を持ち始めたのは、スティールキャストが逃げた菊花賞、一般的に言えばナリタブライアンが勝った菊花賞だった。すなわち、私にとって最初のダービーは次の年のダービー、タヤスツヨシのダービーである。私にとって最初のダービー馬は、タヤスツヨシにほかならないのである。

 このダービーの出走馬たち、昨日のことのように覚えている。
 メイショウテゾロマイルチャンピオンシップで大穴を開けた。そのとき、私は馬券を買っておらず、競馬をやる叔父との会話で「メイショウテゾロが怪しい」などと言ったのみであって、大変な大魚を逃した。上籠の名は今でもコメント欄でよく見る。オグリワンは言わずとしれたオグリキャップの一番仔。ハシゼンの◎が思い出深い。マイティーフォースは白かったと思う。ダビスタでひいきにしていたテンパレートシルの子だった。マイネルガーベマイネルブリッジNHK杯のワンツー。ナリタキングオーは我が生涯初のダービー本命だった。皐月賞経由でない馬がダービーを勝ったり、同じ騎手が二年続けてダービーを勝ったりすると、この馬のことが少し頭をよぎる。イブキラジョウモンはアウザールの産駒であって、別冊宝島あたりでシャーガーのことを知った者としては、大成を願ったものだった。ダイタクテイオースタイルパッチの牝系、牝系に少しだけ興味を持ったもとだった。シグナルライトはかわいそうな最期だった。ホッカイルソーは我がカネツクロス日経賞で撃沈したマークオブディスティンクション産駒。オートマチックはどんな騎手でもエンストしないようにと名づけられた、少しだけ乗り役に失礼な馬名。ジェニュイン、皐月賞前から調教師は「ダービー向き」と言っていたはずで、後にマイルで走ったり、風に驚いたりというのは想像外だった。フジキセキがターフを去ってのち、間違いなく正統派サンデーサイレンス一番馬であったと思う。
 そして、タヤスツヨシ。彼こそがダービー馬。私にとってのダービーというものの印象を植えつけてくれた馬。ダービー馬は必ずしも最強馬ではない。ダービーただ一戦に燃え尽きるのも一つのありかた。その悲哀。そして、ダービージョッキーというものは、いかなる騎手になる資格があるのか。小島貞博が見せてくれたもの。サンデーサイレンス旋風の中で、この馬がダービーを勝ったということ、ジェニュインではなかったということ。それは私が競馬を続ける限り、その年のダービーと巡り会い、そのたびに思い起こす記憶である。
 さらば追憶のタヤスツヨシ、ただし私が生きる限りダービーで会おう。願はくは、さらにお前の子らがターフを、ダートをにぎわせますように。