派遣村叩きに思う〜肉をやれ、肉をくれ、明日の肉をくれると思わせてくれ〜

「お父さんは死んだじゃない!!自営業で、苦しくても誰も助けてくれる人なんていなかったじゃない!!派遣の人にはあんたみたいな優しい応援者がいていいわね!! 今から東京へ行ってきたらいいじゃない!!」

http://anond.hatelabo.jp/20090112165017

 派遣村叩きについての、上のような文章を読んだ。読んで、俺は、ふつふつと、俺自身の、そのころのことを思い出した。実家、生活、ぶっこわれていき、ぶっこわれて、明日どうなるかという恐怖におびえた日々のことだ。いや、正確には思い出せない。俺は実家を失ってから今の生活が落ちつくまでの間を、ほとんど思い出せない。いったいどんなタイミングで俺が、家族それぞれが家を後にしていったのか。引っ越しはどのように行われたのか。余計な詳細ばかり覚える俺が、本当に思い出せない。そのことに気づいたのも、しばらく経ってからだった。人間、ほんとうにやばいことについては、ほんとうに忘れることすら忘れさせるような、そんな機能が搭載されているのかもしれない。
 もちろん、俺は自分の苦労自慢をしたいわけでも、不幸自慢をしたいわけでもない。だいたい、自慢できるほどのことかどうかはわからない。客観的に見れば、もっとやばいことになった人、やばいことに今直面している人、いくらでもいる。さらにいえば、俺は主観的に俺を見て、「おまえ、ろくでもなかったな」と言える(他人に自己責任を押しつけるのはくそったれだが、全部否定するのも、そいつ殺しだと感じることがあるが、どうだろうか。どちらにせよ、本人のものだろう。押しつける権利も、無いという権利も他者にはない。/もちろん、その自責を客観的に見つめ直すよう示唆するアドバイスは存在する。その上での「自己責任批判」なら歓迎すべきだ。踏み込むべきラインがどこかにある)。そんな比べっこは不毛だ。あらゆる構成要素が千差万別だ。横の比較も縦の比較もできない。
 その上で、俺は俺を観察する。俺が、俺のだんだんと崩壊を察知し、崩壊し、そこから首の皮一枚で落ちついていくまでの長い過程、「明日は大丈夫なのか? 生きさせてくれるのか?」という、心臓が凍えるような、体がこわばるような、そんな日々のことをふりかえるに、そこには「弱い者が夕暮れ、さらに弱い者を叩く」だの、「奴隷自慢、奴隷の足かせ自慢」だの、そんな余裕はなかった。ブックマークにも書いたが、皆殺しだ。皆殺しのメロディだった。全殺しだよ、全殺し。金持ちも、同じような貧乏人も、俺よりも貧乏人も、みんな死ね! 東京で売れてる芸人はみんな死ね! 俺は、秋葉原通り魔事件のときにこう書いた。

 この加藤のものとされる書き込みには、説得力がある。殺人行為は別として、この内容に共感できる人間は決して少なくないはずだ。かくいう俺だって、スポーツカーがエンジン唸らせて勢いよく交差点から飛び出していくさまを見れば、心の中で「事故れ!」とつぶやく人間。……いや、まどろっこしい言い方はなしだ。宅間守だ。数年前の、実家も何も失って路頭に迷いかけたときの、宅間守の言葉は強烈だった。乾いた砂を詰め込んだ壷に水を流し込むように染み渡った。あらゆる偉大な小説家の言葉よりも、詩人の言葉より染み渡った。ワイドショーに見入った、見入った。
 たぶん、今はましになった、そこまでではなくなった(いちいち探しはしないが、この日記をはじめたころは、金持ち憎悪の内容が多かったと思う。とかいいながら、タクシーを憎悪してる俺一匹発見)。かといって、宅間の言葉に感応した自分が元から持っている世間憎悪、嫉妬心、そういったものまで消し去ったわけでもない。そこに上塗りされた宅間の言葉が消えたわけではない。それだけ言葉は強いものだ。

2008-06-12 - 関内関外日記(跡地)

 宅間だぜ? それで、まさかそんな精神状態の狂った人間に、「本当の敵は誰か?」とか高説たれてもききはしねえ。目の前に生きることに精いっぱいだからだ。その上憎悪に塗りつぶされている。恐怖に塗りつぶされている。思想や考え方じゃない、まず肉をよこせ、肉だ、肉を食わせろというところだ(だからって、たむらけんじが焼き肉屋で成功することはねえだろ!)。だから、俺は「ロストジェネレーションには肉を食わせろ」と思う。いや、その世代だけでなく、とりあえず肉をやれと思う。菜食主義者にはヤーコンでもハスイモでもいいけど、ともかく食わせろ、いや、明日も食えると思わせてやれ。思わせてくれ。
 そうだ、今、この時の社会的身分だの収入だのは、あんまり関係ない。たとえ今、きちんとした正社員で、ちゃんとした年収があっても、明日ゼロになったり、マイナスになったりして、路上に放り出される可能性のあるときは、人はみんな狂気に陥る。「可能性に怯えるのは愚かだ。今、此処、自己を見よ」とか言ったって無駄だ。超攻撃的になる。
 ……いや、「人は」という主語はよくない。少なくとも俺は。俺はそうだった。そして、ひょっとしたら、俺のような人間。俺のような弱さを持った人間は少なくないんじゃねえのかと思う。だいたい、今までこの国は(俺の生活は)豊かすぎたし、そっから一気に落ちる落差の高さに怯えるな、というのは無理がある。俺はそう思う。目の前の生活のでかさ、圧倒的さ、それを客観的に見て「もっと努力しろ」と言うのも「その事業(奴隷生活)には見切りをつけて、生活保護を受けるべきだ」と言うのも、同じくらい残酷だと、俺は思う。
 ああ、しかし、俺は貧困問題や仕事や労働問題について語りにくい。理知と道理で語るのに心情が抗議し、心情に対して理知と道理が抗議する。「こういうことを語るには情と理両方なくてはならない」というのも違うように思える。状況とそれを受ける情は千差万別だし、あまりにそれぞれの事情という夾雑物が多すぎる。むしろ、「情でもなく、理でもなく」。よくわかんねえが、非情非理、非情即情、非理即理のすっかり取りはらったところに、そのなんにもないところに、しかるべき「あるべきやう」があるんじゃねえのとか思う。そして人間、だんだん賢くなって、ますますその「あるべきやう」から外れること少なくなっていくと思う。俺はその点について、えらく気長な楽観主義を持っている。目の前はものすごく悲観趣味なのに。でも、俺もますます賢くなって(以下、武者小路実篤略)。と、こんなふうに、なんとなく抹香臭くしめたくなるあたりが、俺の今のよりどころという気もする。

 今は、ここまでの憎悪はなくなったと言える。理由はなぜか。暮らし向きがよくなったからか? それは断じて違う。収入と呼べるかどうかわからんほどの収入は、横ばいか右肩下がりだ。馬齢を重ねて、積み重なる人生経験というものもなく、ただただ未来が狭まっていくだけだ。頭打ちだ。つぶしが利かなくなっていく、それだけだ。
 なのになぜ、余裕らしきものができたのか。よくわからない。貧困に慣れて、鈍感になってきたのか。仏教本にかぶれたせいか(考えてみれば、俺は仏教に対して「本を買って読む」、「読んで勝手に解釈した妄想を日記で垂れ流す」、「夢を見る」の三点でしか接していない。ゆえにこの表現)。それとも、何かしらのケミカル(合法です)な事情によるものか。それはわからん。わからんが、それら総体の俺が仮和合して今、ここの俺が、たまたまいるというだけのことである。憤怒の地獄に溺れる自分も万馬券当てて世界王者気分の俺も、一瞬一瞬の輪廻と転生にすぎない。かりそめの赤肉を、自我を、そんなにたいそうなものと思うこと、信じることはない。俺の世界も、世界の俺も、そもそも汚れたり綺麗になったり、増えたり減ったりすることはないのだ。阿留辺幾夜宇和のままに生きればいい。その時にそのように感じた俺の心持ちなど身びいきに迷わされた虚ろなもの。だが、その妄念に次ぐ妄念がそれを確かなもののようにさせていく。憎しみは自然に生まれたもの、自然な自分の感情などではない。そう思いたがってそう思っている。縛られた方が楽かも知れないと考えて、そうしているにすぎないのだ。

2008-11-18 - 関内関外日記(跡地)

 というか、俺もまだまだ明日どうなるかわかんねえところにいるのは確実であって、また昨今の経済状況を見るに、いずれ俺の板を吹っ飛ばす大波小波が来るのは確実であって、ともかく俺はその恐怖を一度知っているからこそ派遣村のようなものを応援する気にはなれども、叩く気にはなれない。助けろ、絶対に助けろ。助けてくれ。そして、だからといって、派遣村を叩かざるをえないような人を応援する気にはなれないけれども、叩く気にもなれない。それもわかるつもりだ。俺もそうだった。俺もそうだ。
 ……ひさびさに俺は俺の恐怖の扉を開けて、俺はとても疲れた。おしまい。

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