※昨日の記事の修正/信じているからこそ放っておけるということ

同時に俺は俺の生活の楽しみ(競馬、自転車、エロ、野球、その他いろいろ)はぜったいに手放さない。

みうらじゅんがいいこといった - 関内関外日記(跡地)

 この部分がどうにもひっかかった。ひっかかりながらも、そのまま後悔ボタン(これはよい誤変換)を押した。それでも、やっぱりなにかおかしいといろいろ考えて、その心の動きがとらえられたような気がしたので、とりあえず記しておく。
 というか、この日記、「とりあえず」以外のことはほとんど存在していない。実は、気合いを入れてテキストエディタで下書きしたような記事が、いくつもあるのだけれど、たぶん何一つ公開されていない。完成したためしがない。たまに「あれ、この本の感想書いたはずだったのに?」とか出てくるのは、それの記憶の残滓。思うに、自分が一番言いたいこと、人に読ませたいことだからこそ、一生懸命引用したり、調べたりして打つのに、書いたら書いたで放っておける。ということは、実はあんまり、自分は「公開」に重きを置いていないのかもしれない。

 閑話休題。上の話。「ぜったいに手放さない」というところがよくない。こころよくない。拘泥している感じがある。義務感がある。たとえば、競馬と俺、俺と競馬。俺が競馬に対して義務感を抱く。そう考えた瞬間、俺は競馬がこころよいものでなくなる。いや、一気にそこまではいかないにせよ、少し競馬のよさが減るような気がする。お気に入りの服についた小さなシミみたいになる。
 つまりは、「手放さない」と言うことは、同時に、それを「手放せるもの」と見なしているということ。手放したり、手放せなかったりするもの。そんなものは、「絶対」とは言えないんじゃないのか。たぶんそうだ、俺はそう思う。
 そういえば、俺は前に「愛したい」という言葉について考えたことがあった。そのときに気づいたことがあった。

なにかに対する願望は、現状の欠如を同時にあらわしている、そのように思いました。

http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20090206/p2

 「手放さない」(=手放したくない)というのは、今、欠如していることを意味する。手放す可能性があるから、「手放したくない」という。そういうわけだ。
 だったら、俺は今、競馬を手放す可能性を感じているのか? 否、その逆だ。逆だからこそ、俺はなんかひっかかった。「手放したくない」に異議を申し立てた。俺はそう思う。俺と競馬は一体といってもいいものなのに、それを突き放すような表現をした。そこがこころよくないのだ。
 だから俺は、上の部分を以下のように修正したい。

同時に俺は俺の生活の楽しみ(競馬、自転車、エロ、野球、その他いろいろ)について、それを楽しみたければ楽しむし、その気分じゃなかったそれをしない。それだけのことだ。

 ……うまく書けないが、そんなところだ。もしも競馬や自転車やエロや野球が自分にとって自然にわかちがたいものであれば、俺がほうっておいても、それが離れていったりはしない。気が向かないから休んだところで、別にたいした問題じゃない。それでもしも、ずっと離ればなれになってしまっても、それはもうそういうものだということだ。「俺はこれが好きだ」と思いつめたところで、その時点で自由じゃなくなる、こころよさが減る。それじゃあつまらない。
 だから、まあ、別にどうでもいいんじゃね? という心持ちで、自分が愛するものに接していって、なるようになるというところの自由さ。その結果、それがなんらかの意味で正しければ、自然とわかちがたいという境地にあって、それがとてもよいのではないか、俺はそう思う。それこそが、趣味三昧、ある意味の絶対。対を絶つところの不二ではないか。本当の意味での、絶対に手放さないとは、放そうとも放せず、手も、手が持つものすらない、そういうところではないのか。
 と、ここまでくると、なんとなく信の話に近いんじゃないのかとか、そんな風にも思えてくる。というか、それは嘘だ。俺は最初から信について語っていたのだ。たぶん。それは、吉本隆明の『最後の親鸞』を読んで感じたもの、『<信>の構造』を読んで感じたもの(←ほら、これの感想文を日記から探そうとしたら、ないでやんの)、そして、鈴木大拙の本(←これなんて、一番自分が感じ入ることのあったものたちなのに、ほとんど言及が残っていない)を読んで感じたもの、まさにそのところだ。
 すなわち、俺の上の方の「競馬」と書いたところを、なんらかの概念、目指すべき、あるべき概念、「愛」でも「平和」でも「理想」でも「信心」でも「革命精神」でもなんでもいいけれど、それらに置き換えても、なおかつわかちがたいところに、それらの実現があるような、そんな気がする。とりあえず。
 そうだ、とりあえずでいい。何か伸びたぶん、その分だけどっかで縮んでいる。こちらが大きくなれば、あちらが小さくなる。そもそもすべては一つなのであって、増えもせず減りもしない。だから、昨日間違えた分、その間違いが形になってあらわれたものを見て、今日の心持ちがある。一度大きくどこかに振れてしまうのもいいかもしれない。ただ、どっかで打ち返すところがあるかもしれないという、大まかな予感、そして、たとえ掘り進んだ分、くるっとひっくり返って別の方に山ができているのを見ても、それはそれで、自分の大きく求めていたもの、自然にわかちがたいものであるという信の信、そういったもののありようについて、俺は大まかに、大雑把に信じている。今のところ、とりあえず。それじゃあ。