ラブプラス仁義〜ある文化人類学者の報告〜

 ラブプラスになにをプラスすればいいのか、いや、なににラブプラスをプラスすればラブなのかというはなしになると思う。ヤクザにラブプラスをプラスするとどうなるかというようなはなしだ。ヤクザラブプラスとなると仁義や盃というところにラブプラスがプラスされるわけである。親父が舎弟とカノジョ通信をすることもあるし、セーブデータを引きつぐような、そんな継承儀式がこの国のマフィアたちに見られる伝統である。
 奇妙なことに、この儀式を見まもるのはおおくの警察官であって、公権力は民間暴力同士の暴発を防ぐために、公権力が民間暴力を公認するかのような構図をつくり出す。これは日本という国における「本音」と「建前」を理解する一助になるであろう。
 さて、儀式というものはつねに荘厳と厳粛が求められる。だが、そればかりではなく、その後の解放、乱痴気騒ぎ、カルナバルもあわせもつのが特徴である。親父ないし叔父貴とよばれる疑似血縁関係上の年長者からラブプラスを受けついだ新入りのマフィアは、あえてノンセーブで電源を切ることによるペナルティを引きうける。これは「仁義を切る」という言葉からのアナロジーと考えられる。ヤクザの世界は切ったはったの世界であり、仁義のほか、見えや札びらを切ることも必要とされる。これは、ヤクザを構成するもののなかに一般社会からそもそも被差別的に切られている存在が少なからず存在すること、ないし、自ら親類縁者との縁を切ってこの世界に入るということによる。
 そういう意味を一身に引きうけた若年のマフィアは、二回、三回、四回とラブプラスの電源を不埒に切りつづける。まだ、儀式は静寂の中にあり、藁でできたカーペットを敷き詰めた広いホールには、かのチェーザレ・ロンブローゾのかっこうのサンプルとなりそうな「懲りない面々」がじっと中空を見つめている。このさい、もちろんニンテンドーDS機にイヤホンないしヘッドホンなどはつながれておらず、紙の戸でできた部屋の中にはリンコの声が響くことになる。
 やがて、儀式のクライマックスが訪れる。ラブプラスに対する冒涜、カノジョに対する冒涜の対価として、今や顔を真っ赤にした若いマフィアは、愛の言葉を大声で叫ばねばならぬ。これに例外はなく、たとえヤクザの階層において高い地位を占める人物の血縁者であっても、コナミコマンドを入力することは許されない。ここでコナミコマンドを入力したヤクザは(決してそんな人物は存在しないのだが)、その人相を「破門状」というグリーティングカードにプリントアウトされ、敵対勢力を含むすべてのヤクザ、さらには公権力者、近隣の家々などに送りつけられることになる。面子を何より大切する日本人にとってこれは耐え難いことであり、彼は切腹するほかの選択肢はない。
 かくして、柔道場のような広い和室に「好き、好き、愛してる! リンコ、愛してる!」と、叫び声が響くことになる。これも一つの恥ではある。しかし、その座にいるものは疑似家族であって、身内なのでもある。そして、ラブプラスによる繋がりというのは、言うまでもないが血よりも濃い。この恥、秘密を共有することにより、初めて若いヤクザは「舎弟」として、その疑似家族的結社の末席に加えられるのである。そして明確に、結社の「内」と、一般社会という「外」の間に線が引かれたことを、彼は理解することであろう。
 このようにして、ラブプラスを介したヤクザのイニシエーションの内部に、日本社会ないし日本人にとっての、「内」と「外」との強烈な感覚、日本人に根ざす意識の一端を垣間見ることができる。これは日本人とラブプラスという、異文化人にとってはなはだ理解困難な関係性を理解する一助になると信じ、ひとまず筆をおく。