わたしはあずにゃん。

1

 わたしはあずにゃん。わたしはハリウッド・パーク競馬場にいた。開催日だというのに、場内は閑散としていた。青空の向こうに、シエラレオネの山々が見えた。色とりどりの勝負服が陽光にきらめき、ゴール板の前を駆け抜けていった。
 運送屋のつなぎ姿の律先輩がいた。「あちゃー、ちょっと穴狙いがすぎたかー」といって、馬券を破りすてた。そのあと、プリティストロングはトコトコと歩きながらゴール板を通り過ぎた。
 「だめじゃないですか、お金は大切にしないと」とわたし。
 「まあ堅いこと言わないの。それに本番はこれからだから」と律先輩。
 先輩は、どこからか100ドル札の束を取り出した。何本のヴィンテージ・ギターを売り払えば、それだけの額になるのか見当もつかなかった。
 「10レース、ベターフォーチュンの単勝に全部」
 律先輩は穴場に札束を積み上げた。そんな馬鹿なかけ方があるんだろうか? わたしは気が遠くなるような気がした。オッズは一瞬で下がり、1.1倍になった。オッズ板とにらめっこしていた老人が目をむいた。
 「せ、先輩……!」
 「いいのよ、梓。これで伝わったから」
 律先輩は空を見上げた。白鳥が飛んでいくのが見えた。美しいハリウッドパーク。コースの真ん中には池があり、そのまわりを馬たちは走りつづけた。もう、律先輩の姿は競馬場のどこにも見あたらなかった。

2

 わたしはあずにゃん。わたしはニューヨークの小奇麗なビルのモダンなオフィスにいた。目の前で澪先輩が、背中の開いたドレスを着て、セルフタイマーのデジタルカメラに向かってポーズを取っていた。その写真はすぐさまフェースブックにアップされるのだ。
 「……あの、先輩、その、なんで先輩はそんなことをしてるんですか?」
 わたしには、あの恥ずかしがり屋の澪先輩がそんなことをするなんて、考えられなかったのだ。
 「いいか梓、バンドは人前でやるものだろう? こうやって慣れておくことも大切なんだ」
 いつの間にか窓際にいた澪先輩は、自然な笑顔を浮かべてそう答えた。見下ろしてみると、路肩に地味な色のミニバンが一台停まっていた。澪先輩は慣れた手つきでノートパソコンを立ち上げていた。
 「……!」
 モニタに向かっていた澪先輩の顔色が少し変わった。ほんのわずかな動揺だった。わたしがそれとなく後ろから近づくと、先輩には不釣合な、どこかの競馬場のオッズが表示されていた。
 澪先輩は急に立ち上がると、引き出しから便箋を取り出し、なにか手紙を書き始めた。ふしぎなことに、ペンがいくら紙の上をなぞっても、そこにはなんの字も現れていなかった。やがて書き終えたのだろうか、その便箋を封筒に入れ、わたしに差し出した。
 「これを頼む、梓」
 どうすればいいんですか? と言いかける前に、澪先輩はドアの前に立っていた。こちらを振り返ると、また笑みを浮かべた。美しい顔だった。完璧な笑顔だった。
 「違うんだ、梓。この顔に固まって、もう戻らなくなってしまったんだ」
 そして澪先輩は出て行き、二度と帰らなかった。

3

 わたしはあずにゃん。わたしは極寒のヘルシンキにいた。わたしは澪先輩から託された手紙を、所定の‘レター・ボックス’に‘投函’しなければいけなかった。わたしは雪の中の公園をひとり歩いた。ころばないように、慎重に歩いた。
 「……梓ちゃん」
 不意にわたしを呼ぶ声がした。わたしの本名を呼ぶ声がした。振り向いてはいけない。わたしの職業的本能はそう告げた。しかし、次の瞬間わたしは声の方を向いていた。それはわたしのよく知る声だったからだ。
 ムギ先輩の体は、植え込みの間に無造作に打ち捨てられていた。雪に血が染みていた。
 「……‘赤いオーケストラ’も、もうおしまいねぇ。せっかくのなのに残念だわ」
 うつろな目をしてムギ先輩は話し始めた。
 「なんで、なんでムギ先輩がこんな目に!」
 わたしは何もはばからずに叫んだ。
 「ゴメンねぇ、わたし、どうしても焼きそばが食べたかったの……」と、ムギ先輩。
 「フィンランドに焼きそばはないです!」と、わたし。
 「放課後ティータイムのほうが、大事だったのにねぇ。私、ドジだから……。‘むったん’にもよろしくね……」
 「ムギ先輩、ダメです……」
 やがてムギ先輩のきれいな髪も雪の中に埋もれて、まったく見えなくなってしまった。

4

 わたしはあずにゃん。わたしはゼレノグラードとソーネチノゴルスクの中間、モスクワの北西40kmに位置するポヴァロヴォの、ロジェキと呼ばれる小さな村の近くにいた。わたしの姿は地の上になかった。わたしは深く掘られた地下道を歩いていた。長く長く果てしなくつづく地下道を歩いていた。何時間歩きつづけただろうか、ようやくオレンジ色の光が見えた。わたしは重く錆びた鉄の扉を押し開けた。
 「あれ〜、あずにゃんだ〜! もう来ないかと思ってたよ〜!」
 そう声がするやいなや、わたしの体は抱きとめられてしまった。
 「あずにゃん分、補充〜」と声の主、唯先輩は言った。
 ……その部屋は10m四方の無機質なものだった。部屋と呼べるかどうかもあやしかった。部屋の隅にむき出しのスチール・ベッドがあり、薄い毛布が乱雑に置かれていた。中央には古びた木製のテーブルがあり、その上で旧式の機器がカチ、カチと音を立てて動いていた。空調の不気味なうなりは止むことがなかった。
 「唯先輩は……、唯先輩はこれでよかったんですか?」
 「え〜、ソヴェートロシアでは、これが当たり前なんだよ。それにね、あずにゃん、ここでこうしていると、UVB-76を通して、世界中の人にわたしのギターを聴いてもらえるんだよ」
 「違う! 違います、そんなの! そんなのじゃだめなんです!」
 唯先輩は、そっとわたしを抱きしめた。
 「……うん、わかってるよあずにゃん。わかってるよ。だからね、わたしも、もうここからいなくなっちゃうの。これからは、あずにゃんが一人でやっていかなきゃいけないんだよ?」
 「……え?」
 いつの間にか、唯先輩はギー太を抱えて、部屋の真中に立っていた。ピックを構えると、あの懐かしいチャルメラのメロディを奏でて少し笑った。そして、マイクに向かって歌いはじめた。
 ≪75-59-75-59.39-52-53-58.5-5-2-5.K-on-……≫

5

 わたしは梓。わたしはついに一人になってしまった。ずいぶん前から決まっていたことだった。わたしにはどうすることもできなかった。
 ときどき、わたしはフェンダームスタングを思うがままにかき鳴らす。小気味よい高音が無人の世界をサーフする。やがて静寂が訪れる。その静寂がわたしの胸を深く、ゆっくりと、刺す。


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