※ネタバレあるかも。でも、もう公開から日が経ってるからいい。いや、そういう問題ではないか。などといってる間に、もう猶予はおしまいだ。
俺はもう一度『インセプション』を観るだろう。そして俺がもう一度『インセプション』を観るとき意識するのは、「妻がコブにインセプションしたのではないか?」ということだ。無理筋は承知。しかし、俺はこの作品にそのくらいの回転の可能性を抱きたい。抱きたくなる映画だ。
観る前は、ウィリアム・ギブスンを想像していた。観終えた感想は、フィリップ・K・ディックだった。サイバーパンク過ぎるわけではない。SFのギミック、小道具は最小限に抑えられている。眠りに没入する機械など、テルモの低周波治療器にしか見えない。決してオノ・センダイではない。そう、『インセプション』世界には、電脳のグリッドもなければ、ニューロンのトンネルもない。出てくるのは、いつはじまったかわからない、現実と見まごうばかりの夢。明晰な夢。
明晰さ、明解さ。三階建て、四階建ての世界を、よくぞここまで明晰に構築してのけた。説明的な説明に依らず、また漠然とした投げっぱなしでもない。驚くばかりだ。逆に、一階建ての平屋なのに、グダグダになって意味のわからぬような映画やドラマ、小説というのは、いったいなんなのかと思うくらいだ。
とはいえ、明晰なだけに恐ろしい。明晰な世界を疑わなくてはならないということが恐ろしい。『マルホランド・ドライブ』のなにが恐ろしかったか。
世界だ、世界全部だ。観ていると思ってる自分の脳味噌も信じられようか?
回り続けるトーテム。転ぶか、転ばぬか。遠大ななぞかけ。無限に繰り返される円環。……しかし、俺はやはりこの映画の結末をポジティブなものだと思う。コブは家に帰ろうとして帰った。意思のはたらきがあって、そこに至った。思えば、PKDの主人公たちも、現実と非現実と宇宙と世界とを行き来して、その目的は別れた女に過ぎなかった。しかし、それに過ぎないものが人間全部だ。
だから、あざむかれ、危険に付き合わされた仲間たちも、あえてコブを責めない。きっと、夢を共有したら、夢も融け合う。たとえ、コブと妻ほど永いときを過ごさずとも。
だからコブは帰った、それでよかった。たとえ、最後に出てきたあの子供たちが、あまりにも記憶の中のそれと同じであったとしても……。
それでもおかしい。なにか、おかしいんじゃないのか? 俺はそう思う。俺はキックがほしい。だから、もう一度『インセプション』を観る。それはきっと妻に「ここは現実ではない」とインセプションされ、現実を失ったコブの見る夢であって、それを観た俺はまた「これはコブが妻にインセプションしたのではないか」と思うのだ。