こんなんが話題になっていた。「葬送のフリーレンは高齢独身者層の願望」という解釈自体はどうでもいい。おれはこういう話題を見るたびに「おれにはこういう能力がまったくないな」といつも思う。そのことについてちょっと書く。
おれはたぶん、人並みに本を読み、映画をみて、アニメはたくさんみているだろう。それなのに、だ。こういう解釈がいっさい頭に浮かんでこない。そういう発想がない。アニメに限らない。「村上春樹のあの作品のあれは殺した女の比喩なんだよ」ということが前提として語られているのを読んで、「ひえー」となるくらいわからない。
さすがに、「異世界転生」ものや「パーティを追放された」ものについては、「現実が苦しい人が現実逃避したいのだろうな」とか、「不遇な現状が変われるんじゃないかという淡い夢をみているのだな」と思える。でも、それはもう作品のなかで、そのまま主人公が願望を述べていることもあったりして、おれでもわかるのは当たり前だ。
それよりちょっと上になると、おれはもうまったくわからん。おれは国語のテストが得意だったが、こういう評論だか批評だかを書けと言われたら、偏差値25くらいじゃないだろうか。
では、おれはフィクションを読んでなにを楽しみにしているのか。それは、登場人物に自分自身を投影させて……というわけでもない。まったくない。感情移入というのがいまいちわからない。いや、まったくわからない。
じゃあ、いったい、なにをみているの? 小説を読んでなにが楽しいの? 生きていて楽しいの? ということになる。「文章のこの表現が」とか、「作画のすごさが」とかも語れない。ほんとうに、なんなんだろうね? わかんない。
でも、心が死んでいるわけでもない。深夜アニメをみて文字通り涙を流すこともある。なんだそれは。言語化というやつができない。あるいは、おれみたいなのがシンプルに作品を楽しんでいる、と言い張ることもできるだろうか。でも、ちょっとなんか、賢しらに「この作品は現代人のアノミーを巧みに表現している」とか言ってみたい。でも、そういう嘘やでっち上げをする発想の第一歩が湧いてこない。なんなら、AIに質問してみたほうがいいだろう。
というわけで、おれはフィクションを楽しんでいるようであるし、まあそれはいいのだけれど、それより一階上の批評、論評、解釈、そういったことの真似事はできないという話。まあ、たぶん大学を出ていないという、体系的な学問を習得していないという学のなさが一つあって、もう一つは現実社会のこともよくわかっていないということのダブルパンチなんだろう。今から学ぶにはどちらも遅すぎるといえる。
以上。
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『葬送のフリーレン』はすでに好きなアニメで、漫画も一日一話読んでいる。どこかで『追放されたチート付与魔術師は 気ままなセカンドライフを謳歌する。』の漫画に似ているというのを見かけたが、なんとなくわかる部分はある。しかしまあ、『チート付与』の異常なセンスはなにか突き抜けている。