親父の本棚の敷居の高さ

 朝、薄い食パンをかじりながらiPhoneで読む。「ゾーニングの敷居は高すぎない方がいい」、「高すぎると共生じゃなく隔離になっちゃう」とか、たぶん以前も目にしたことがあると思うが、そのあたりだよな、などとも。もっとも、最初の目的として、たとえば「共生」みたいなところでみんな共有できてんのかとか、むずかしいのだろうけれども。
 それよりも、なにかこう、エロへの目覚め的な、そういう話がおもしろいというか。俺は週刊新潮の「黒い報告書」ではなく、週刊文春の「淑女の雑誌から」だったな、とか。いや、そのころはヘアヌードも平気で載っていたっけ。あと、まあ、週刊誌もあるが、親父の本棚という存在は大きかった。あからさまなエロ本はなかったけれども、大量の書籍の中の荒木経惟の写真集だとか、サドだとか、あるいは『我が秘密の生涯』(のちに田村隆一訳版を自分で買ったが、最初に読んだときの感動はなかったな)とか。
 それで、父の方針はといえば、「子供は盜み見して育つものだ」であった。だいたい、上の対談で言われていることと同じだろう。ただ、こちらがそういう段階にあるかないかのころから、それをテーマに一席ぶつくらいのことをするわけだ。子供心にも「え、手の内明かしてどうすんだよ」みたいなところはあるわけで、正直言ってそれはそれでうっとうしいところもあるわけだが。
 まあ、しかし、そんなこともエロへの欲求の前ではどうでもいいことではあったと言える。どうでもよろしい。エロいものが見たい、オナニーがしたい。やがては実際の女とエロいことをしたい、女でなくてもいい、そんな生き物だった、中学生の俺は。あるいは今も。
 ……とか個人的な話をしたところでしょうがないが。ただなんだろうね、親父の本棚

(ここまで昨日書いた。さて、なにを書こうとしていたのか?)

 ……親父の本棚の高さを、お上的なものが決めるのか、というようなところへの違和感。つい最近『共同幻想論』を読んだりたあたりからわけもわからず言葉を引っ張ってくれば、共同幻想と対幻想の問題になるのかしらん。あるいは、条例でわざわざ近親相姦表現を名指しするあたりが、まるで禁制の発生に関係しているみたいでおかしいのだが、それもよくわからない。ただ、性や共同体をめぐる話は、いつだって現在進行形なのだろう。
 それで、なにかよくわからないが、性について語るあたっては、それ自体が暴力的な妖精であるもとい要請であるかもしれないが、やはり各々の性について、それをベースに語らざるを得ないのではないかという気もする。上の対談だって、それを避けて通れないように。みながKKKの仮面のようにすっぽり体を隠して語れないのではないか。……いや、それもまた自分が比較的語りやすい立場、自分が性的に多数寄りであるという傲慢かもしれない。ただ、フラットに出し合えるようになり、それぞれの形、あるいは形がないという形、千差万別のありようが、見えすぎてもなんだが、見てないようで見ている、無理矢理晒さなければならないわけでもなく、見せられるわけでもなく、自由になっていけないものか。言ってる自分にも、なにを言ってるかわからんが、少なくとも都条例みたいな形で、その自由に近づくとは思えない。

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