十月の抜け殻

 フイリヤブランの花が咲く季節になりました。おもしろくもない。くだらない事情によってくだらなく伸びた納期、妙な暑さと寒さが体躯から(もともとそんなものありはしない)活力をうばいます。人生の多くの時間をおもしろくもなければうつしくもないものを長いことみて過ごさねばならないということがもはや決定づけられ、その確信が一秒一秒凝固してくようで、まるでおもしろくないのだけれどまったくいかんともしがたいというところが残るばかりなのです。わたしが両の手を見たところで素晴らしいピアノ弾きになれただろうかとか、なにか打ち込む機会があればひとかどのものになれたであろうかとか、もうそういう思いもはるか彼方のようです。じくじくとしたなにものににかなれるかというような気持ちはすっかり労働の日々というものがうばいさってしまい、十月の抜け殻はなにゆえにかエサを食い、眠り、排泄するばかりなのです。しかし、その「なにゆえ」へのわけのわからぬ拘泥というもののいやらしい力、おぞましいもの、おぞましいのにそれを失うことへの恐怖心というものは、わが身をひたすらに食いあらし、ますますわたしは薬を飲んでは目の前のつまらなさがいっそうにつまらなくなって、また一方で恐怖芯がすっかりおさえられるなんて都合のいい話はないのです。要は医者に行ったところでどうにもなる話でもありませんし、なによりわたしは生活と生活に必要な金というものを考えるとさらに恐怖芯は増しますが、それについて策を講じようとするどころか、考えることは死体をカレーで煮るのを想像するよりもまったくおぞましく感じられ、生まれてきた星というものを間違えたような気になるばかりなのです。わたしはおもしろいものや美しいものばかり見ていたいのに、身体がそれに背き、労働せねばならぬことがそれに背き、社会のしくみに背かれているのです。夢を見ようにも、睡眠にすら背かれていて立つ瀬というものすらありません。ただ、もう少し労働というものがあたりまえのものであり(そんなもの有史以来存在したのかどうか知りませんが)、このていどの人間でも普通(そんなもの有史以来存在したのかどうか知りませんが)に生き、この恐怖から自由であればよかったのにとは思うのですが、現代というものはあるていどでもおもしろく、美しいものに触れつづけるにはジョブズのような才覚か、スタハノフの働きが必要とされるのでしょう。それ以外の人間というのは、なにかひどく効率のわるい機械、有能な人間にとって邪魔でしかないものでしかありえません。そんなものをもう生産するのはおやめなさい。放っておけば減っていくのだから、もうこれ以上くるしみで地球を重くしてはいけません。この世は醜悪で、まあわたしはもううんざりしてしまっているし、おもしろくもないし、うつくしくもない。なのになにゆえにかエサを食い、社会や文明、文化のような顔をして……。