自死、自殺、生命活動上の特別転進、あるいは言葉について

 県は30日、自殺防止の施策をまとめた県の「自殺対策総合計画」の名称について、「自殺」という言葉の使用をやめ、来年度から「自死対策総合計画」に改める方針を示した。中身も「自死」の言葉を使う。遺族の感情に配慮したといい、県の文書では今後、可能な限り「自死」に統一する。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shimane/news/20121030-OYT8T01317.htm

 島根県のこんなニュースを目にした。しょうもない、くだらない、言葉狩りだ……、そう一言で斬り捨てることはできない。かといって、島根県は立派だ、遺族の感情は大切だ、自殺より自死の方が悪いイメージがない、悪いイメージの言葉は使わないほうがいい……、とも言えぬ。まあ、どちらかといえば前者なんだけど、なんかモヤッとするところがある。
 言葉というか、用字・用語の操作でそれが指ししめすなにかを変えようとすること、これについてはなにか興味深いところがある。おれは高卒で言語学やらなんやら知らないが、長い時間をかけて人間が用字・用語を変化させること、あるいはこの例のように明確な誰かが明確な目的をもって用字・用語を変化させようとすること。
 まあ、後者の主体とその目的如何では、「興味深い」どころかそうとうの悪感情を持つ。おれはおれが出た小学校で行われていたことは言葉狩りにすぎないし、あれは強烈に不愉快なものだった。一方で、だれかが「この言葉はやめよう」と言い出して次第につかわれなくなり、それによってだれかが救われたって話もあるだろう。

 でもまあ、やはり今回の島根県の言い換えは、あまり面白くないか。操作して自殺問題から目を逸らさせようとしているように見える。だからおれは、はてブに"最終的には「生命活動上の特別転進」あたりか"などと書いたのかもしれない。「特別転進」というのは、赤旗が報じたNECの一件で見かけた言葉「特別転進(退職)」だが、さらにそこから連想されるのは大本営発表の「転進」だろう(……というか、NECのは「特別転身」のほうがふさわしくないだろうか。まあ、大企業のことはしらん/特別転進支援施策の結果に関するお知らせ(2012年08月28日):プレスリリース | NEC)。
 ただ、おれはやはりここにある種の滑稽さも感じずにはおれないのだが。はたして、「自殺」と「自死」にどれだけの違いがあるのか。ほかの言葉は検討されなかったのか。会議は開いたのか。どんな話し合いをしたのか……。
 そういえば、今日はこんな記事も読んだ。

市教委は同書の今年度版の改訂の際、関東大震災の記述で「朝鮮人を殺害する行為に走るものがいた」としていたのを「虐殺される事件が起きた」などと改訂した。だが改訂した部分に対し市議会などから異論が相次ぎ、市教委は「発達段階の中学生にとってふさわしくない表現」という理由で「殺害」という表現に戻す方針を示している。

http://mainichi.jp/area/kanagawa/news/20121101ddlk14100185000c.html

 はっきり告白すると、おれは「朝鮮人を殺害する行為に走るものがいた」と「虐殺される事件が起きた」のどちらが強烈で「ふさわくない表現」なのか一読してもわからなかったし、だれがなんの抗議をしているのかわからなかった。まあ、「虐殺」という用語に学問上の少なからず重要な意味を含むのだし、それがあるとないとでは大違いなのかもしれないが、「朝鮮人を殺害する行為に走るものがいた」の方がむしろ生々しいようにも思える。そもそも、「虐殺」に「殺害」以上の深い意味があるのだ、ということが伝わらなければ、中学生にとってたいした違いなんかありゃしないんじゃないか?
 そんなことよりも重要なのは、関東大震災のときの具体的な出来事、殺された朝鮮人、それを煽ったのは誰か? 予防拘禁された「太い鮮人」朴烈、金子文子、虐殺された大杉栄とその甥と伊藤野枝、福田戒厳令司令相手の敵討ちに失敗した和田久太郎……。

 「僕のこのたびの行為は、僕がつねに抱いている主義思想とは関係なく、一昨年、震災の混乱を利用して、『社会主義者朝鮮人の放火暴動』などという嘘八百の流言を放ち、火事場泥棒的に多くの社会主義者朝鮮人支那人が虐殺されたことに対する復讐である」
 久太郎は立って、犯行にいたる動機を陳述し始めた。数十枚に及ぶ草稿を読み進むにつれて、次第に昂ぶる怒りに声が奮え、いくどもコップの水を飲まねばならなかった。
 震災の混乱の中での亀戸事件(亀戸署に検束された川合義虎、平沢計七ら労働組合の者たち九名が軍隊によって刺殺された)や、検束された社会主義者たちに対する警察でのかずかずの拷問、そして大杉と野枝と橘宗一の虐殺に触れていったとき、聴いていた古田の目頭は熱くなった。背だけを見せて陳述している久太郎もまた泣いているように身体を震わせていた。
 「かくのごとき暴虐! これに対する悲憤! それが凝って以って今回の復讐となったのである。……が、その数多い暴虐のなかにおいても、とくに、吾が大杉夫妻および気の毒でたまらないいたいけな宗坊の虐殺に対する悲憤が、もっとも強く僕の心を動かしたことはもちろんである」

 ……というわけで、横浜市は副読本として松下竜一の『久さん伝』(松下竜一『久さん伝―あるアナキストの生涯』を読む - 関内関外日記(跡地))にするべき。というか、やっぱり虐殺の方が強いな。うん、『久さん伝』が無理なら、その副読本とやらの表現を虐殺にするべき。ついでに『虐殺器官』を読ませるべき(……とかいうおれは、推薦図書はもちろん、教師が個人的な趣味で勧める本ですらなぜか読む気にならなかった。そのせいで、おれは筒井康隆を一冊も読んだことがない)。

 と、話を自殺に戻すと、自殺と自死でなにがどれだけ違うのだろうか? というわりと素直な疑問もある。いや、自死で言葉のイメージアップするというのなら、それをさせてどうするよ? というところもある。もちろん、こう表明することで、自殺者の遺族感情を傷つけているかもしれないし、殺されるくらい憎まれるかもしれない。それでもおれは、なにかこう、なんか違うんじゃねえのかという気がするのだな。
 そう、自殺を論じるのならば、そいつがもっとなんなのかっていうところがあって。うろ覚えで申し訳ないけれども、寺山修司なんかは、「いじめや経済的事情が原因のものなんて、自殺と呼んじゃいけないんだ。それは他殺だ」みてえなこと言ってて、おれもそれには同意するし、もしもおれが「島根県自殺を自死に言い換えたほうが委員会」に出席してたら、背景によっては「社会的殺人の被害者」に言い換えようと言い出したかもしれない。ただ、それで自殺問題が問題だとして、その解決に寄与できるとも思えないが……。
 しかしまあ、自殺か。おれのこのごろの口癖といえば「自死か、路上か、刑務所か」だ。自殺でなく自死といっている。が、これには込められたなんらかのニュアンスもなくて、たんに字数のもたらす言葉のテンポがいいんじゃないかと感じてるからそうしてるだけだ。そのうえ、「じ」、「ろょう」、「けいむょ」で、インブリードしてるようにも思えるからだ。そのていどのことだ。
 と、ここでおれは愛用の『角川類語新辞典』を引っ張り出す。雪の多い地方には、雪を表す言葉がたくさんある。自殺が多い国には、自殺を表す言葉がたくさんある……のかな。
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 <071生理>のg【自殺―自分で自分の命を絶つこと】に見える言葉は「自殺」、「自害」、「自決」、「自刃」、「自尽」、「生害」、「切腹」、「割腹」、「追い腹」、「腹切り」、「首吊り」、「首縊り」、「縊れる」、「縊死」、「自刎」、「身投げ」、「投身」、「入水」、「心中」、「殉死」、以上だ。f【ある事柄が原因で死ぬ】の中の「切り死に」、「玉砕」、「散華」、「安楽死あたりも親戚かもしれない。意外なことに収録されていないが、おれは「自裁」という言葉も好きで、「裁き=死かよ、さすが日本人!」というあたりの感覚だ。自裁に懲役も執行猶予もないのだ。悪くない。
 この辞典のいいところは、単に一語一語の類語が挙げられているところでなく、その仲間が周りに配されていることだ(ほかの類語辞典がどうなってるかしらん)。体系的に並んでるんだ。それで、たとえば<071生理>のd【死亡―息が絶えて生命がなくなること】などもすぐ近くにあって、78種類の死を表す言葉と意味と用例が並んでいて壮観だ。「自殺の言い換えはないだろうか?」と思ったとき、そっちに目をやってもいいし、<071生理>のh【殺害】31語から使える言葉を探すのもいいだろう。読み物としていい本だ。ただ、総索引が漢字なので、そこは使いにくくて仕方ない。
 話が逸れたな……。まあ、いいや。なんの話か鳥取か? すまねえ、島根のことだった。いや、そんなんじゃなくて、この言葉の良し悪し(植物のアシは縁起が悪いからヨシにしようぜ! って最初に言い出したのはだれなのかしら)というのはそんな単純なもんじゃないし、というような。いや、たとえば『善き人のためのソナタ』じゃねえが、自殺者を数えなくなったから我が東ドイツに自殺者はいない! とかいうような操作はかなわんし、本件はそのような意図で出た話じゃないのは明白なんだけど(これで「わが県には自殺者はいない!」とか言い出したら、すぐに引っ越して「自殺決意書」を残して死んでやってもいいが)、わりとその、言葉の操作というか、なんというか、そのあたりの含む泥沼や深みは甘いもんじゃねえだろうって、おれはそう思う。 言葉ってのはこわいもんだ。だから、知らない間に自重してしまっている言葉遣いが、為政者なり権力者なりなんなりの都合のいい誘導によるものかもしれない、という警戒心は持たねばならない。かといって、へんな方向だけに警戒してしまうと、特定の対象に対して侮蔑のニュアンスしか残っていないような言葉を使って、批判を浴びたら「言葉狩りだ! 陰謀だ!」となったりもしかねない。そんなとき、言葉は暴力だ。一個の単語が他人に唾を吐きかけたり、ぶん殴ったりするようなことになる。だから、ヘイトスピーチの問題も出てくる。そういう言葉をあえて使うなら、それだけの覚悟が必要だ。殺すつもりなら、殺される覚悟で。言葉は発した人間が望むものになるとは限らない。あるいは、決してならないのかもしれない。
 なにそれ、言葉すごいやばい。でも、人間とかいう生き物の多くはそれによって情報を処理するのだし、この情報というやつはやっかいなことに、常に出口を求めていて、はっきり言ってしまえばこの血肉袋どころで御せるものじゃない。そのうえ、ここにキーボードがあって、何千何万の選択肢を殺して選んで出てきた言葉が頭の中にあって、キーを打ったら画面に出てきて……、おれはなにをしているんだ? 左下に「公開する」ボタンが見える。やめろ、そいつは罠だ。でも、おれはきっとそれを押すぜ。それで、世界に向けて多くの間違いを晒し、暴力をふるう。警戒、警戒、警戒! いや、知った話か、くそったれ!