なぜなんだぜ? 吉田伸夫『科学はなぜわかりにくいのか?』を読む

 

科学はなぜわかりにくいのか - 現代科学の方法論を理解する (知の扉)

科学はなぜわかりにくいのか - 現代科学の方法論を理解する (知の扉)

 

「科学はなぜわかりにくいのか?」という以前に、おれという人間は「なぜ理科と算数がわからなかったのか?」というところに尽きる。尽きるのだが、尽きないところがどこかにあって、こんな本を手にとってしまう。

手にとった理由はもうひとつあって、著者が吉田伸夫だということだ。おれは吉田伸夫さんのサイトを、インターネットを見始めた最初のころから読んでいた。「はてなアンテナ」にも登録されているだろう。こちらである。

www005.upp.so-net.ne.jp

おれみたいな人間がどうして「科学と技術の諸相」にたどり着いたのかわからないが、おれのなかでこのサイトの著者は「科学的な面で信頼できそうな人」と思った。ただ、著書は難しそうなので(量子論とか……)、今まで読むことがなかった。が、「科学はなぜわかりにくいのか?」といわれると、「なぜなんだぜ」と思って手に取ろうという気になった。本書は、恐竜絶滅の小惑星衝突説がどのように受容されていたったのか、といった過程をもとに、科学の「方法論」を論じている。

気になった箇所を一気に引用する。

科学的な学説に対して、「正しい」という概念を使うことは適切ではありません。あらゆる学説は、あくまで仮説にすぎず、「暫定的・近似的に利用できる」「ある範囲で実効性がある」といったものにすぎないからです。(p.38)

 以下、「です・ます」と、「だ・である」が混ざるのは本文と「Q&A」やコラムが別口調のため。

 科学とは、集合知を利用する学問である。ごく一部の独創的な科学者が新しい学説を提出し、他の多くの科学者が後続研究を行う。こうした協同作業を通じて、初めて学問の進歩が可能になる。したがって、新しい学説を提出する際には、多くの科学者が後続研究に参加して検討を行えるように、提出の仕方を工夫しなくてはならない。(p.50)

 ふむ。

反証可能性の高い学説」とは単に「データと比較可能なさまざまな予測を導ける学説」だと見なすことをお勧めする。(p.62)

ふむ。

キリンの場合は、遺伝子の変異によって首が伸び始めたときに、ワンダーネットのおかげで最大の障害となる脳貧血のリスクが低減されたので、すぐに淘汰されずに首が伸び続けたのでしょう。つまり、キリンの首が長いのは、「長い首が不利になるような障害が少なかったから」なのです。(中略)キリンは華奢に見えますが、実は、ヒョウを一撃で蹴り殺す力があり、成長したキリンは、サバンナではほとんど無敵です。(p.108)

え、そうなの?×2。

 科学的方法論が通用しないのは、社会の求める応用が、多くの場合、いわゆる複雑系(complex system)にかかわるものであるからである。(p.113)

これは本書のメーンテーマに対する答えの一つであるだろう。

 科学リテラシーとは、単に、科学の基礎知識を身につけていることではない。科学には何ができて何ができないか、ある学説にはどの程度の信頼性があり、その成果をどこまで利用すべきか――などの問題について、たとえば専門的な知識がなくても、自分の意見をまとめられるだけの素養があることを意味する。端的に言えば、「科学とのつきあい方を知っている」ということである。(p.188)

科学リテラシー。おれはこれについて、おれ自身がどこまで「つきあい方」を知っているかではなく、「つきあうだけの能力がないか」ということによって折り合いをつけている……つもりである。

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……これは、ちょっと違うか。これじゃない。

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科学というものは日々すごーい進歩しているし、ある分野とある分野が融合したり、ある分野をある分野によって進歩させたり、横の広がりのようなものもすごーい広大になっていくであろうし、そうすると、ある課題の進歩について人の一生で足りるのかな? とか思ったりするのだが。

ようするに、ある分野についての基礎からはじめて、いろいろの知見を広め、ようやくその分野の最先端に立ったときに、その研究者が80歳になってたりしないのかなー、ということ。

これはある程度、的を射ているような気がする。とはいえ、巨人の肩にのって、車輪の再発明を避けることもできるのである。でも、この記事じゃない。

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これだ、これ、これよ。

おれだってできればいつだってクリアでクレバーな判断をしたいと思うけれど、おれはおれがいつだってクリアでクレバーであるという自信がないという自信がある。そして、おれは密かにその自らへの不信という名の自信こそが大切なんじゃないかと思っている。

自分の素養に対して常に懐疑的であること。おれが信じそうなことは信じない。おれが信じなさそうなことは信じない。つまりは、おれくらいの理系苦手人間が信じられそうなことには飛びつけない。おれですら信じられないことは信じられない。これである。

と、これでは永遠の懐疑論に陥ってしまうのではないか。微妙な話である。そこでおれは、ある種の権威主義をも利用する。

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ここにきてミハイル・バクーニンが出てくる。べつにいいだろう。「長靴のことなら、私は長靴屋の権威にまかせよう」。これである。ただ、本当にそいつが長靴屋の権威かどうか見極める必要が出てくる。本当にそいつが「科学の権威」か。が、本書によれば、それも難しい話ではない。多数決と言っては語弊があるのかもしれないが、教科書に載るくらい定説になっているものだけ、ある程度信じればいい。おれには論文に直接アクセスするだけの能力がないので、後続研究だの引用数だのを調べることはできない。定説と思われるものを言う人にのってみることだ。それに、細分化してさらに深くなってしまっている科学というもの、世間を一変させてしまうような学説、自分の生活を変えてしまうような大きな学説そのものには距離を取るべきだろう。

となると、おれは長靴屋そのものではなく、よい長靴屋を見極められそうな人間を探さなければいけない。そこのところの、革命的警戒心をもって生きなければならない。「科学とは縁がないよ」といっても、本書にも出てくるように、「癌の治療をどうするか」といった問題と無縁でいられるほど甘くはない。そんなに生きたいのかと言われると、「いや、別に」といったところではあるが、まあそれはそうとして。

まあそれはそうとして、ともかく、おれは本書『科学はなぜわかりにくいのか?』は信用に足る本であると、本じゃないかな、本だろうな、本といってもいいんじゃないのかな、と思ったので、ここにお勧めする次第である。ちょっとした科学トリビアも得られるし。以上。