やっぱり、もっと人殺しの顔をしろ2021

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おれの前で「人殺しの顔」といったな。

いや、おれが書いたのか。

書いたのだったっけ。

とりあえずちょっと読んでください。

それでもって、「人殺しの顔」といったら次の記事も読んでください。

goldhead.hatenablog.com

 

……おれがこの記事を書いたのは2010年のことです。11年経ってどうなったか。基底は変わっていない、と思います。変わっていないどころか、もっとこういう傾向が強まっているように思えてならないのです。

新型コロナウイルスの流行という特殊な環境ではありますが、この感染病が日本経済に与えたダメージはすさまじいものがあると思います。今はまだ混乱の中にありますが、ウイルスが終息し、国からの補助も終わったあとに、たいへんな地獄が待っているような気がしてなりません。それは企業の消滅であり、雇用の消失です。

とはいえ、このような情況下を逆にチャンスにしてしまう人たちもいるでしょうし、もとから持っているものはさらに得ることができる、そんなものでしょう。一方で、持たざるものはさらに奪われる。聖書の時代からの決まりきった構図です。

勝ち組と負け組に分かれる。さらにその差は広がる。そして、勝ったものは負けたものから見えないところに隠れてしまう。逆に、負けたものも勝ったのもの視界には入らなくなる。

勝ったものはかれらのコミュニティの中で人殺しの顔をしない。しかし、負けたものはどうでしょうか。もう、自分が呼びかけずとも、人殺しの顔をして生きることになるかもしれません。そのような世界が待っている。おれはそう思うのです。

その前段階として、あるいは同時に、貧しさゆえに人が人を殺してしまうような、そんな事件や事故が多くなるでしょう。コストダウン、コストカットの名のもとに、粗雑な建築によって、過酷な労働によって、人が人を害するようなことが増えるでしょう。どこかほかの国の欠陥建築を嘲笑っていたら、いつの間にか自分たちのレベルがそこに落ちていたということになるでしょう。なっているのかもしれません。

そこに悪があるのか。悪意があるのかわかりません。ハンロンの剃刀を適用するべきかもしれません。しかし、このような社会自体が悪であると見ることもできるでしょう。

それを前にすると、人が人を怨恨で殺そうとしたり、金銭目的で襲ったりすることが、まだ理解可能で人間らしいことのように思えてしまうのです。

もちろん、目の前に包丁を持った強盗がいたら怖い。とても怖い。けれど、それは目に見える怖さです。自分を殺そうとする強盗とおれ。ただ、それはじつにちっぽけだけれど、単純なリアルさがあります。

一方で、人が死んでしまうような欠陥建築や過労死寸前のドライバーが運転するトラックやバスがあったりする。一見、それがそうとはわからないかもしれません。そういうものが社会に蔓延していたらどうでしょうか。そこにリアルがあるのでしょうか。

精神医学で、明確な対象があるものを恐怖といい、ないものを不安というのでしたか。逆でしたか。いずれにせよ、目の前に包丁を持って自分を殺そうとする強盗がいることは怖い。とても怖い。けれど、日々の生活全てを覆い尽くすこの社会というものに、「べつに人が死んでもいい」という基盤があるとしたら、そちらのほうがよりおそろしいかもしれない。そんな気がします。

自分を殺そうとする強盗に遭ったら、そこで殺される確率は高いが、ある種の納得はある。いや、強盗に狙われるほどお金はありません。しかし、確率もわからないけれど、社会を構成する普通の人間たちが、自分を殺しにかかっているとしたらどうでしょう。自分はそれに気づきもしない。恐怖か、不安か。頭がおかしくなりそうです。

しかし、この社会経済の停滞は、よりいっそうそういう世の中をつくっていくのです。雑な手順で薬剤は作られ、アパートの階段は今にも崩れ落ち、過労による居眠り運転のバスがつっこんでくる。

それを、受け入れるしかありません。もしもあなたが富めるものなら、そんなものを回避して生きることができるかもしれません。おめでとう。しかし、そうでない人間は、そんな危機に囲まれて生きることになります。もちろん、包丁を持った強盗に出会う確率も多い。お金はないのに。

そしてなにより、自分自身が人殺しになってしまう可能性が高まります。人間は安くなってしまったし、安い人間は安い仕事をする。そこに危ないものが潜んでいるのです。わかっていて、あるいは、単なるコストカットだと思って、結果としてだれかを殺してしまうかもしれない。

もう、人殺しの顔すらできない社会なのかもしれません。ひょっとしたら、とっくにそうだったのかもしれません。村上春樹を呼んできて「それを壁というか卵というか、どちらでしょう?」と質問したら、「壁」と答えるであろうものが、人殺し構造なのです。

だから、人殺しの顔をしろといったところで、もう意味はないのかもしれません。そんな顔をしていなくても、もう人殺しなのです。

でも、自分の悪を想像して、鏡にうつった自分の顔を人殺しの顔にするのもいいでしょう。悪には悪を想像することはできません。せめて、悪を想像しましょう。

そうですね、やっぱり、人殺しの顔をしましょう。そうしたら、あなたはおれを避けられるかもしれないし、おれはあなたを避けられるかもしれない。そちらの方が、いくらか安心、安全の社会でしょう。

違いますかね?

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