土曜の朝、おれは何度も左腕の袖をめくって肩まで出ることを確認した。確認のしすぎで、少し上腕が赤くなった。基礎疾患があることを証明するために、精神障害者保健福祉手帳や自立支援医療(重度かつ継続)の手帳、そしてお薬手帳があることを念入りに確かめた。もちろん、ワクチン接種券と予診票も何度も確かめた。そしておれは真夏の昼間、自転車を漕ぎ出した。
自転車をいったん会社にとめた。集団接種会場は会社から徒歩5分というところだろう。まだ、30分はある。早すぎた。早すぎて悪いことはないというのがおれの行動の原則だが、「会場に待機場所はないので時間ちょうどに来てください」という。ちょうどとはどのくらい「ちょうど」なのだろうか。電波時計に11:00が刻まれた瞬間、おれは建物のドアの目の前にいるべきなのか、ドアが開いた瞬間であるべきなのか、建物の中にちょうど一歩目を刻むべきなのか。あるいは、受付の目の前にいるべきなのか。これは真剣に悩む。
会社で麦茶を飲むなどして時間を潰したあと、おれは安い銀色の日傘をさして目的地に向かった。15分前。ものすごくゆっくり歩く。目的地の建物に入ったことはない。ただ、なんど横を通り過ぎたかわからない。わからないが、明確にこの道より南だったか北だったかというのはわからない。あえて携帯端末の地図は見ない。それでも、建物が目に入ってしまう。母親に連れられた、白杖をもって歩く青年がいた。目的地は同じかもしれない。ゆっくり、後ろをついていく。
建物の前についてしまった。7分前。とてもゆっくりと日傘を畳む。畳んでバッグに入れる。バッグの中の接種券と予診票を確かめる。4分前。おれはもう我慢できなくなってしまい、建物の中に入った。
係員の人が立っていた。
「ワクチン接種の方ですか?」
「はい」
「では、あちらの受付に」
受付に並ぶ。おれは少し気になっていたことがある。横浜市のワクチン接種サイトに、このような一文があったからだ。
新型コロナウイルスワクチン接種について(特設ページ) 横浜市
集団接種は「高齢者施設等従事者」の方を中心に予約を受け付けます。
おれはこの一文について、会社の人と話していて知った。その人の家族にも基礎疾患を持った人がおり、本人が「かかりつけ医」がいないのだがどうしようと迷っているという話しだった。そして、この文章をサイトに見つけた。
おれが最初にワクチンの早期接種をするかどうか迷っていたときに、こんな文章はなかった。そう思う。そうだったら、おれはもっと悩んで、困っていた。だが、そんな覚えはない。
おれは「基礎疾患」持ちなので先にワクチン打つべきなのか? - 関内関外日記
基礎疾患(精神疾患+睡眠時無呼吸症候群)持ちのおれ、ワクチンを先行接種することにしたのこと - 関内関外日記
少なくとも、たった今、送られてきたチラシを見ても、「基礎疾患のある人はかかりつけ医で接種を行っているか確かめてください」、「高齢者施設等従業者の人は職場での接種が行われているか確かめてください」、どちらもやっていない場合は、予約システムから予約してください、とあるだけだ。
おれはもちろん、サイトも見ていた。そんな一文はなかった。中心とはどういう意味なのだろうか。ひょっとしたら受付で「ここは高齢者施設等従業者が中心ですので、あまり重篤ではない基礎疾患者はお帰りください」と言われたらどうしよう。言われたら、従うまでだが。ただ、そんな文章は横浜市のサイトになかったと思う。
受付のテーブルに行く。「何時からの予約ですか?」と言われたので「11時です。少し早かったですか?」と答える。それに対する答えはなかった。ワクチン接種券と予診票、そしてお薬手帳を出す。「身分証明書は」というので、「ではこれで」と精神障害者保健福祉手帳を出す。なにも言われない。少なくとも帰されることはないようだ。
接種券と予診票、そしてお薬手帳がクリッボードに挟まれた。「11:00~」と予め書かれていた付箋を受け取る。「お二階へどうぞ」。
丁寧に案内され、二階へ上がる。待っていた係員の人に付箋を渡す。待合のパイプ椅子に案内される。椅子は二つずつつながっていたが、接種者が一人の場合は一人に二席与えられる。夫婦や介護者がいる場合は二席に二人だ。先ほど外で見かけた親子もいる。全体的にスペースが確保され、ガランとした印象すらある。
待合の正面には、大きなテントのような囲いに覆われた二つの問診室があった。ホワイトボードに医師の名前が書かれている。囲いと言っても応急のものなので、中から話し声が聴こえてくる。
「昨日、オリンピックの開会式見ましたか?」
おれは注射が怖いので、緊張していた。前の人の話が終わると、係員がやってきて待ち人を連れ去っていく。連れされると、また別の係員の人が来て、座っていた椅子を消毒していく。この係員の人たちは、役人さんなのだろうか? それともみな看護師さんなのだろうか?
そんなことを考えていると、おれが呼ばれた。
テントの内側に入る。白衣を着た中年の男性医師(おれも中年だが)と、なにか簡易な防護服のようなものを身に着けた女性の看護師さんがいた。
医師が予診票に目を通す。「一度目?」、「はい」。たどる指が基礎疾患のところで止まる。治療中の病気のところでまた止まる。汚い字、というか、「障害」という字を書き間違えた(こざとへんの横にすぐ害という字を書いてしまった)、「双極性××障害」の文字を指差し、さらにクリップボードのお薬手帳を指差し、「これの治療を受けているのね?」という。「はい、そうです」。
結局、お薬手帳が開かれることはなかった。が、医師が気にしたのは、その横に書かれていた「睡眠時無呼吸症候群」の文字だった。
「睡眠時無呼吸症候群?」
「はい、検査入院してわかったんですけど……、昼間に意識を失うみたいになっちゃったんで」。
「いや、自分もそうなんですよ」
と、医師は自分の顎のあたりを指差す。たしかにたぷんたぷんしている。
「体重が増えちゃってね。夜ね、寝ていると、奥さんがこうするのよ」
といって、クイッと指で顎を上げる仕草をする。
「気を失うほどにひどくはないんだけど、睡眠の質がね~」
というわけで、なぜかおれが医師の基礎疾患を知るという問診だった。
と、そこは問診室かと思っていたら、接種の場所でもあった。それじゃあ注射です、ということになる。看護師さんが注射を用意している。おれは何度も練習していた袖めくりをする。少し汗ばんでいたので、朝の練習のときほどスムーズにはいかない。それでも、左肩をしっかりと出した。
さあ、来い!
……と、看護師さんに声をかけられる。
「もっと力を抜いて、だらんとしていいですよ」
おれは、力んでいたようだ。おれは力を抜く。
「アルコールは大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
「ヒヤッとしますよー」
ヒヤッ。
「はい、チクッとしますよー」
プツッ。
「……はい、終わりです」
と、医師が、小さな絆創膏のようなものをすぐに貼る。
「ちょっと抑えておいてください」
おれは、絆創膏を抑える。
「いや、服の上からでいいから」
と、笑いながら言われる。
「ありがとうございました」
おれはテントから出る……と、思ったら、後ろから声がかかる。
「バッグ、バッグ忘れてますよ」
おれは緊張のあまり、椅子の後ろのカゴに置いたバッグの存在を失念していた。
「ああ、どうも、どうも」。
そしておれは、接種後の待機場所に出る。接種前の待合同じようなシステムだ。席に案内されると、今度は「看護師」と書かれたビブスを着た看護師さん(なにせ「看護師」と書かれているのだから看護師だろう)が来て、「気分はどうですか? もしも気分が悪くなったら手を上げて知らせてください」と言う。言うと、待機終了時刻が書かれた付箋を「ではこれを失礼します」と言って服に貼って、所定の位置に戻っていった。
気分はどうなのか? とくに、なんともない。接種後に渡された副反応のチラシなど読む。すぐに読み終える。バッグから、最初に送られてきた接種案内の「ファイザー」の説明書などあらためて読んでみるが、これもすぐ読み終える。どうしたものか。
周りを見回すと、携帯端末をいじっている人などもいる。ああ、べつに病院でもないし、いいのか、などと思う。思うが、なんとなく自分は違うなと思って、広い部屋の中を見たりする。「室内は撮影禁止」などという貼紙がある。あとは、先程の「気分が悪くなったら手をあげてください」といった貼紙。
時間が来た人のところに看護師さんが来ると、「問題はありませんか?」と再度確認する。立ち去った後は、すぐに係員の人が来て椅子を消毒する。
そして、おれの番が来た。
「問題ありませんか?」
「大丈夫です。どうもありがとうございます」
おれは注射を終えた。注射に泣くこともなかった。たいしたものだ。
部屋を出ると、係員の人が「おつかれさまでした、出口はこちらになります」と案内してくれる。頭を下げて「お世話様です」という。そのようなやりとりを二度、三度して、外に出た。外は灼熱。
おれは日傘をさした。そして、牛丼屋に向かった。これから起こるかもしれない副反応に勝つには、牛肉と白米の力が必要かもしれないと思ったからだ。おれはふだん牛肉と白米をほとんど食べていない。焼き肉という選択肢はおれのなかになかった。もっとも、副反応に勝つどころか、並盛りいっぱい食べるのに苦労する有様だったが。
さらに、熱に備えて100円ローソンでカロリーメイト的なものとゼリー飲料的なものとスポーツドリンクを買い込む。
自転車で、帰る。
その後の経過。
11時ファイザー1本目。左腕に筋肉痛が出てきた。
— 黄金頭 (@goldhead) 2021年7月24日
午前11時にファイザー1本目。左腕上腕の筋肉痛はやや強い、熱は36.9℃、休日の平熱(より低いくらい)。
— 黄金頭 (@goldhead) 2021年7月24日
昨日午前11時ファイザー1本目。現時点左上腕の筋肉痛の範囲広がる感じ。腕が上がらないほどではないが当然上げると痛い。倦怠感、熱発なし。
— 黄金頭 (@goldhead) 2021年7月25日
昨日午前11時にファイザー1本目。少し熱っぽい。37.3度。ただ、休日のこの時間はこのくらいが平熱の範囲内。
— 黄金頭 (@goldhead) 2021年7月25日
……これが翌日まで。おれはなぜか休日部屋にいると熱が37度をこえるので、そのようになったというだけ。左上腕の筋肉痛は、だんだん範囲の広い打撲痛のようになってきたが、べつにたいしたことなく。ただ、ワクチンが左上腕に留まって体中に行き渡らず、「左上腕だけワクチンの効果がある人間」になってしまうのではないか、などと思う。思って、なんとなく固くなったような左上腕をもんだりもする。とくに意味はない。
まだまだ副反応があるという翌々日、つまり今日。朝、熱を測るも平熱もいいところ。筋肉痛もほとんど感じられない。会社に行って、働いて、帰ってきた。
それにしても、おれはなんでワクチンなんぞ打ったのだろうか?
会社がコロナのせいで潰れるのはもうすぐだし、そうなったらおれは食えなくなって自裁するか餓死するかだ。コロナウイルスに感染するかどうかといった話以前の問題だ。おれのしたことは、まったく愚かしいことのようにも思える。「まだ、生きつづけられる気持ちなのか?」と問われるようでもある。その問いに対して、おれははっきりと答えることはできない。それでも、まだ生活が成り立っていたら、二回目を打ちに行くことだろう。
自分が生きつづけることを想像するなんて、愚かだ、愚かだ……。