ニッポンの体育、運動、スポーツ興行

f:id:goldhead:20210727124611p:plain

note.com

こちらの記事が話題になっていた。

小中高校12年間を通じた実体験の積み重ねにもとづく限り、私が理解する「日本の体育」は、弱者への差別や人権無視の思想と密接に結びついている。憎むべき邪悪な行為にほかならない。

この邪悪な行為の延長線にあるオリンピックもアスリートも許せんぞ、という気迫溢れた記事だ。

おれはこれを読んで、こんな感想を抱いた。

 

運動が嫌いな私がどうしても東京五輪を許せないわけ|安田峰俊|note

おれは学校における理系と体育会系を死ぬほど嫌っているが、興業としてのスポーツを見るのになんの抵抗もない。むしろ好きだ。競馬で素晴らしいサラブレッドが走っているのと同じだ。

2021/07/26 19:33

理系と体育会系を一緒くたにしていいのかどうか知らないが、おれも体育は大嫌いだった。なぜならば、おれはずっと「学年で一番のちび」だったからだ。さらには早生まれで、一年近く年上の体躯と運動能力と同じスタートラインに並ばさられるのは、単なる屈辱発生装置だった。

goldhead.hatenablog.com

とはいえ、走力を始めとした体力については劣っていたけれど、身体のコントロールについては少しはできたような気がする。とくに球技に苦手意識はなかった。学校の授業のソフトボールなどでも、「他の人は球が捕れないから」という理由で、チビなのにキャッチャーをやらされたりもした。

とはいえ、全般的に体育は嫌だし、体育会系というのはもっと嫌だな。最近だんだん緩和されてきたけれど、松岡修造とか見ていると、気持ちが悪くなってくる。

そんなおれも、「体育」ではなく「運動」というものに少し目覚めた時期もあった。上の日記のころだから、10年くらい前だろうか。クロスバイクを買って、一人でただひたすら走ることに目覚め、気づいたら一日に100km、150km、最高で197km走ったりしていた。ふとももに筋肉が付き、健康的に日焼けした。だれとも比べられない運動の世界、やめたかったらやめて家に帰ってもいい世界。最高だと思った。最高だと思って、イギリスからフルカーボンのロードバイクまで輸入した(と書くとすごい金持ちのようだが、当時円高で、Wiggleから買ったにすぎない)のだが、さすがにロードバイクフォーミュラカーであって、おれの手には負えず、高い置物になってしまった。それ以後、ジョギングをしたりもしたが、長続きはしなかった。

体育と運動は違う。体育はなぜか競わせる。勝者と敗者をつくる。やりたくもない人間に無理強いさせて、劣等感と嫌悪感を抱かせる。

むしろ、学校で教えるのは「運動」でいいのではないか。それこそ、おれが一人で勝手に自転車で走っていたような、それぞれのペースで、それぞれ好き勝手に、身体を動かす、そしてそこにいくらかの楽しさがあることを習慣づけられるように。

と、それによって国民が健康になり福祉が……という話に与したくもない。『健康帝国ナチス』という本があったが、そんなもの国から強制されるものではない。でも、せめて、今の(といっても、おれは子供もいないので「今の」教育現場を知らないが)「体育」はやめて、「運動」に変えてもいいんじゃないかと思う。そりゃ、ちょっとした体験としてソフトボールなり、サッカーなり、カバディなりに接する機会はあってもいいと思うが。でも、勝負したいやつ、優劣の世界に行きたいやつは、勝手に部活でもスポーツクラブにでも入ればいい。

で、時間切れなので上のコメントにある「興業としてのスポーツを見るのになんの抵抗もない。むしろ好きだ。競馬で素晴らしいサラブレッドが走っているのと同じだ」について。これについて、「アスリートを動物扱いするのか!」と怒らないでほしい。おれはサラブレッドと人間を比べたら、いくらかサラブレッドの方がすばらしい生物ではないかとすら思っている。

で、アスリート、とくにプロと呼ばれる人たちは、人とサラブレッドくらいの違いがあって、どうにもあの「体育」の延長線とは思えない。高校野球のレベルでそう見える。馬が人より早く走れたり、力が強いからといって、悔しがったり、憎しみを抱くことはないだろう。だからなのか、おれはスポーツを見ることは好きと言い切れる。もちろん、スポーツとひとくくりにするにはあまりにも多岐にわたっていて、そりゃおれがあまり興味の持てないジャンル(採点系競技とか)もあるけれども、基本的には好きなんだ。

果たして、体育、運動、プロスポーツとうまくつながるような世界のほうがいいのか、あるいは別個のものとして存在していたほうがいいのか、そのあたりはよくわからない。そんなところ。