寄稿いたしました。
もう、ほとんど書いてあることがすべてです。
「デジタルデータというものは紙などに比べて半永久的に保存されるのではないか」という思いが、日に日に否定されているってえ話です。
そりゃまあ、おれもインターネット黎明期のちょっとあとからくらいのインターネット老人ですが、ほんとにねえ、ちょっとそう思ってたんですよ。デジタルならば、このままの形で後世に残るんだってね。
ところがどっこい、デジタルなんて、消えたらゼロですよ。そういうもんですよ。ウェブ魚拓があったってそういうもんですよ。つーか、ネット黎明期のちょっとあとくらいのインターネットのアングラ掲示板にいたおれが、そのデータが残っていないことで気づくべきだった。というか、おれがデータを残して、ネットの海に放流すべきだったのかもしれない。
でも、放流したデータだって、レンタルサーバがサービス終了したらなくなっちまうんだ。無限にコピーされねえ。おれはデジタルの、無限のコピーとその不滅を、どっかで信じてたんだ。甘かったんだな。あんたはどうだろうか? おれは冷静でなかったかもしれない。おれが最初の最初に手に入れたデジカメで撮った写真だって、たぶんHDDが吹っ飛んで消えちまったに違いない。
そんで、それが紙焼き写真だったらどうだったか、とか思うよな。表示面は劣化していたかもしれないが、残っていたかもしれない。少なくとも、捨てなければ……ちらかった部屋のどこに存在するかはわからないが。
同じように、やっぱり紙の本かなという気もする。いくら焚書坑儒(儒者はこのさい関係ないが)しようが、どっかに残ったりする。どうにもしょうもない本であっても、一度紙の本として商業流通したら、完全に消滅するのはなかなかむずかしい。それがだれにでもアクセスできるかどうかというとべつの話だが、少なくとも残ってる。
残ってるてえのはすげえことだ。消えちまうってのは消えちまうことだ。消えちまうものにも、消えちまう感傷みたいなものがあるが、デジタルの消え方ってのはむなしいところがある。これも古い人間の感じ方なんだろうか。でも、時間をかけて、徐々に、薄れて、読めなくなっていくほうがマシだろう。もしもだれかが価値を認めたら、書き写されることもあるだろう。
いかんな、どうにも、大きな視野で評価できなくなっている。インターネットが生まれてから、生み出された情報の総量、そして、そのなかで残り続ける情報の総量。それと紙の情報の総量、それを比べたらどうなんだって話だ。どうなんだか、おれにはわからない。でも、最後は、岩に刻みつけるのが一番だぜってことになるのかもしれない。それこそ、ネットなんてものが生まれる前の、いろいろのコンピュータで生み出されて、今はもう見ることができないデータのことなど思うと、そう思わずにはいられない。