感想:東京国立博物館「やまと絵」展に必要だったもの

 今日、遺品として伝えられている黄金時代の絵巻ともいうべき『信貴山縁起絵巻』『伴大納言絵巻』『源氏物語絵巻』『鳥獣人物戯画』『地獄草紙』『餓鬼草紙』『病草紙』などは、すべて十二世紀から十三世紀にかけて成立したものと考えられている。十二世紀から十三世紀といえば、古代律令制社会が音を立てて崩れていった、院政末期から鎌倉時代へかけての動乱の時代であって、日本の歴史のなかで、まず、これほどおもしろい時代はないといえるほど、おもしろい時代であったということを私は強調しておきたい。

 どんなふうにおもしろい時代だったのか。まず第一に、文化の面で鎌倉新仏教の成立を指摘しなければなるまいが、そういってしまっては、いささか年表的な歴史観におちいってしまうことになりかねないだろう。踊念仏の空也が生きていた十世紀から、すでに地殻変動は徐々にはじまっていたのであり、宗教と芸能が手をたずさえて、上流貴族階級と下層庶民のあいだを環流する運動をおこしはじめていたのである。宗教と芸能、ここにスポットライトをあてて中世を眺めるとき、中世の文化は思いがけない上下の環流運動をふくんだものとして見えてくる。それが私にはおもしろいのだ。

 絵巻は、この新しい動きをふくんだ、新しい中世文化の証人であり、ドキュメントである。『今昔物語集』『梁塵秘抄』『新古今和歌集』などとコンタンポラン(同時代的)だということを考えただけでも、私たちは絵巻の背景に、目に見えない精神の運動が渦巻いているのをみとめないわけにはいかなくなるだろう。

 たとえば仏教的な意味における……。

 

……、はい、すみません、調子に乗りました。以上、全部、澁澤龍彦の「絵巻に見る中世」からの引用になります。文庫本だとこれに載っています。

 

 

というわけで、東京国立博物館で行われている特別展『やまと絵』に行ってきた。

yamatoe2023.jp

 

とにかく物量がすごいらしいというので、それはわきまえて行ったつもりだが、はっきり言って負けました。この展覧会強い。

最初になにが必要だったか、反省点を書いておきます。

  • コインロッカーの確保
  • 体力
  • 美術館用単眼鏡

まあ、ぜんぶひとまとめに言ってしまえば、「すげえ疲れるぞ」ということだ。とにかく出展数が多い。しかし、さらにもう一つ疲れる要素がある。ほかの美術展ではあまり感じないことだ。それはなにか。「絵が小さい」、これである。当時は紙とかが貴重だったのか、あるいは日本人は小さく描くのが好きだったのかしらんが、「人物の細かな描写に注目してください」みたいな人物が具体的に小さい。思わず凝視する。肩に力も入る。足も疲れるし、目も疲れる。だから、「いつも平気だけど」という人も、荷物はコインロッカーに入れろ。肩が痛くなる。そして、いつもは思わないんだけど、今日は美術館用単眼鏡持ってる人みかけてうらやましかった。ああ、そうか、その手があったか、と。

 

 

 

こういやつ。これで見てる人、いいなーって思った。たぶん、細かいの、よく見えるんだもん。「やまと絵」の細密なところは本当に細密で、こういうの欲しかった。貸出サービスがあってもいいのではないか。

 

……と、まあ、「たんにおまえが体力のない年寄りなだけじゃね?」という指摘はともかくとして、こんなところに注意してほしい。

 

で、肝心の内容なのだが、上に引用した澁澤龍彦の言う「黄金時代」の『信貴山縁起絵巻』『伴大納言絵巻』『源氏物語絵巻』『鳥獣人物戯画』『地獄草紙』『餓鬼草紙』『病草紙』、これ全部集まってるんだからすごい。いや、正確には会期が四つに分かれていて、四期にようやく行ったおれは『伴大納言絵巻』を見ることができなかった。でも、ほかは全部あった。本気だろ、これは。

 

あとは、出品目録を見ながら、見た順に感想を書いていく。まずはあれだ、なんか全体像ですよ、みたいなのがあって、その次に平安時代なんだが、このあたりで渋滞が起きる。なにが渋滞しているのか。『御堂関白記』(国宝)だったりする。人は「へえ、これが藤原道長の直筆か」などと、読めない(少なくともおれは)文字を読もうとしてしまうものだ。はっきりいって、このあたりで立ち止まっていては後で疲れる。

 

『彩絵檜扇』(国宝/厳島神社蔵)とか見て、「なんだこのサイズ、やばい」となる。単眼鏡欲しくなる。もっとでっかくいこうぜ、みたいな気持ちになる。

 

そんでなんだ、この会期の売りは「三大装飾経」が揃っているよ、ということになる。『久能寺経』(国宝)、『平家納経』(国宝)、『慈光寺経』(国宝)。「装飾経」。装飾されたお経だよ。これがね、もうね、やりすぎだろという。この過剰さ、金銀ギラギラ感といったらない。これはたとえば公式サイトの部分画像とか見てもわからん。なにせ本物の金銀なのだ。キラッキラなのだ。とくに『平家納経』のやり過ぎ感はすごくて、いやあ、驕ってるわーって思うよ。実物見てほしい。

 

そんでもって、『信貴山縁起絵巻』の尼公巻(国宝)とか見て「異時同図法とかSFのヴィジョンよな」とか思ってみたり、『地獄草紙』や『餓鬼草紙』見て、なんか小学生のころ定年近い理科の女性教師がなぜか地獄絵図の本を見せて説教はじめて、泣いている女の子いたなとか思い出したり。

 

 

あとは、『病草紙』(国宝/重文)。病気や畸形の人が描かれていて、だいたい嘲笑する人々の姿も描かれている。十二世紀の人権意識を糾弾せずにはおられない。で、これの「ふたなり」など、英訳ではストレートに「Hermaphrodite」で、澁澤龍彦ならヘルマフロディトスの話からお得意の両性具有の話に持ち込むかもしれない。ともかくとして『病草紙』は印象的であった。

 

『鳥獣戯画』、四期では丁巻の展示で、これは人物中心ということで、かえって珍しいものだったか。しかしこの『鳥獣戯画』の絵柄というものは、なんとも超時代的というか、どくとくのものがある。

 

さて、鎌倉時代。ここでおれが一番気に入った、というか、この展覧会でも一番よかったかもしれないと思ったのは、『明恵上人像(樹上坐禅像)』(国宝)ということになる。おお、これが本物か、と思った。とくに顔が微細に描かれているというが、これがやはり小さく、ここは単眼鏡(以下略)だが、全体的にもなんかビシッときていて、いいなと思ったのだ。

 

 

明恵上人が関わったとされるものに『華厳宗祖師絵伝 元暁絵』(国宝)というのがあって、これは新羅の高僧を取り扱った珍しいものだということだが、その横に『法然上人絵伝』が並んでいた。法然対明恵じゃないか、と思ったが、まあべつに意図あってのことではないだろう。

 

 

仏教ものとしては、『一遍聖絵』(国宝)があって、これはテンションあがる。まあ、展示されていた場面的には踊っていなかったけれど、お立ち台みたいなのは描かれていた。

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というか、『一遍聖絵』は、それこそ藤沢の時宗総本山遊行寺に見に行ったことがあった。

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一番良かったのは、えーと、第七巻だかの、空也上人の縁の地で踊り念仏をするやつだ。高床式舞台みたいなところで一遍を中心とした時衆がみっちりぐるぐる回りながら踊っていて、そこに向かって大勢の人が群がってきている。輿だか牛車だかも押し寄せている。武士も子供も押し寄せている。なんらかの舞台が出来上がっていて、エアがグルーヴしている。

もう覚えていねえや。でも、どうせならこんなシーンでもよかったんじゃねえかな。でも、絵画としての出来とか、絵巻としての見どころというものもあるのだろう。……って、一期と二期には「巻七」が展示されていたようだから、おれの見たものだったかもしれない。

 

あとはなんだ、馬だな。『馬医草紙』(重文)というのがあって、歴史的な馬医を描いたものだが、競馬好きとしては見逃せない。というのも「馬名」とあって、その下にカタカナで馬名が書かれていたからだ。現代日本競馬のルールにおいて、競走馬の馬名は九文字以下のカタカナである。伝統だったのか(たぶん違う)。

 

それにしても馬だな。馬が描かれている絵巻が多かった。合戦を描いたものもあれば、随身を描いたもの、立派な厩を描いたもの、庶民の家の近くに飼われている馬を描いたもの……。馬はずっと身近な存在だったのだな、と思える。それにしてもなんだろうか、かっこよく描かれた馬のシルエットが、サラブレッドのそれに近いように感じる。日本在来馬といえば、もっとポニーのようなものではないか、などとも思う。でも、人物とのサイズを考えると、こんな感じかとも思う。帰路、iPhoneで浦和記念(Jpn2)を観戦しながらそんなことを考えた。馬券はヒーローコールから買って外した。ムーアのために用意された馬って強いのな。

 

そのあとは、えーと、『土蜘蛛草紙』(重文)の土蜘蛛と、その子分みたいな土蜘蛛がおもしろいとか、『是害房絵巻』(重文)の中国の悪い天狗の英訳がGoblinで、「ゴブリンか?」と思ったり、放屁の芸で財をなした『福富草紙』(重文)とか澁澤が好きそうだなとか、『百鬼夜行絵巻』(重文)はキャッチーだなと思ったりとか。でもってやっぱり、夢窓疎石の直筆あれば、「おお、本物」と何が書いてあるのか読めなくても眺めてみたり。

 

見られなかったもの、としては、『當麻寺縁起絵巻』(重文)が一期と二期には展示されていたらしく、寺の縁起の絵巻はいくつかあったが、おれにとって當麻寺は特別な思い出のある場所で、中将姫も好きなので見たかったな、とか。

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(この、いきなり新幹線のチケットが送られてきた話は本当の本当です)

 

まあそんなんで、展示の最後に『日月山水図屏風』(重文)があって、「この月の部分どうなってんだ?」とかなったり、『吉野図屏風』、『浜松図屏風』の音声解説にちょっとうるっときたりしつつ、長い旅は終わった。

 

グッズもいろいろあったが、おれはとくに欲しい物がなかったので買わなかった。会期の問題で見られなかったやつ(『鳥獣戯画』の転んでる兎は展示されていたのだろうか)も多かったし。明恵上人パーカーとかあったら買ったけどな。うん。しかしなんだね、やっぱりね、グッズに印刷されたやつを見ると、「あかん、見てはあかん」と思ってしまうよね。図録もそうだ。本物の印象が汚される。とくに今回は本物の金銀の輝きが。そんなところはある。

 

……というわけで、いちいち「国宝」とか書いたのは、この展覧会の圧を伝えたいがためであって、まあ行けばわかるさ。それになんたって、やっぱり絵はおもしろい。一緒に行った美大出の女の人は「うまい」、「上手」と言っていたので、現代人の目から見てもすげえに違いない。

 

というか、「日曜美術館」で画家の山口晃も言及してたけど、垣根の書き込みの細かさとか尋常じゃねえし。なんとなく曲線的なイメージのある日本の歴史的絵画にあって(いや、そんなイメージあるかしらんが)、この直線、等間隔で、にじみもかすれもない精巧さはどうなってんだっていう。Command+Zどころか修正テープも消しゴムもないんだぜ。一発勝負だ。いや、一発だったのかわからん。絵師がアシに「こことここに垣根先に描いといて」とか指示あって、何十枚、何百枚失敗しつつ、見事にできたやつだけ完成させる、とか。でも、絵師が「ごめん、墨が垂れた。書き直して」とかあったりして。……とか、まあくだらない妄想だが、そのあたりのアンバランスさもおもしろい。漢画風の鳥に、ダイナミックな和風の松の組み合わせとかな。

 

ああ、話があっちこっち行ったな。まあいい。そんだけのボリュームがあった。よかったぜ。今から行けるやつは行って損はないぜ。ただ、とにかく、体力と、あれば単眼鏡、これにつきる。がんばってほしい。