寄稿いたしました。
けっこう気合をいれて読んで、書いたので、よかったら読んでください。「弱いロボット」の持つ意味について、ちょっとでも触れることができていればいいな。
で、。ロボットといっても、自分がこの話から興味を持ったのは機械工学とかじゃない。ミハイル・バフチンの対話理論、そして、ジェームズ・ギブソンあたりから生態心理学というものについて進んでいきたいな、と。とくに生態心理学というものはぜんぜん知らなかったので、なんか読みたいと。
それはともかくとして、岡田美智男先生の本には、自動車に対する言及もあった。もちろん、自動運転がテーマとなる。
自動運転といえば先日、「ジャパン・モビリティショー2023」というイベントに行った。昔、「東京モーターショー」と呼ばれていたものだ。
そこに提示されていた未来の自動車はどうだったか。完全自動運転はあたりまえに想定されていますよ、という自動車会社の意思は見て取れた。人間が完全に運転しない車。四人乗りの車は向かい合わせの座席構成だし、運転が始まると外界の風景が完全にオフになり、移動時間で映画を見たり、スポーツ観戦したり、音楽ライブを見たりできるぜ、みたいなイメージ映像もあった。
こんなんはもう、乗客が完全に向かい合う前提。運転には関わらない。
これはもう、完全に「強いロボット」の行き先だろう。そこに人間の運転なんてものは介在しない。そして、自動運転車は絶対(に近い確率で)事故を起こさない。そういう想像。
おれは正直、「それはどうかな?」と思わざるをえなかった。むろん、十年、二十年なんかより、もっと先の話だろう。今の自動運転のレベルではちょっと考えられない話だ。しかしながら、人間が移動するのにその「外」を感じずに耐えられるだろうか、そこが気になった。あと、もうメタバースが発展すれば移動自体不要になるのではないか、とも。
……いや、ひょっとしたらVRとかメタバースについて考えるほうが重要じゃないかとちょっと思った。
まあいいや。
岡田先生は自動運転に懐疑的というか、「高齢者や障害者にとって待ち望まれている」としながら、やはり人間が運転に介在したほうがいいんじゃないか、と述べている。というか、どこか、クルマを操ることへの、ひょっとしたらだけど身体の拡張みたいな考えがあるんじゃないだろうか。
街のなかを気ままに走りまわってみる。街のなかを走るのはわたしなのだけれど、街の通りや建物、看板、人の流れなどがわたしたちを走らせてもいる。街の情報は「街のなかを走る」という行動を引き出し、その行為は新たな街の情報をもたらしてくれる。
ジェームス・J・ギブスンが「わたしたちは動くために知覚しなくてはならないが、知覚するためにはまた動かなければならない」と指摘したように(ギブソン、1985)、街のなかを気ままに走るときの愉しみの一つは、なにげない行為とそれを支える知覚との間断のない行為-知覚カップリングから生まれる「街と一体になった感覚」だろう。クルマとは、人を目的地まで運ぶためのモビリティであると同時に、街の情報とドライバーの行動をつなぐインターフェースでもあるのだ。
まあいい、こんなのらしい。
なんか、逆に気が散るような気もするが、まあ不必要な発言はしないのだろう。さらに、「弱さを開示する」自動運転システムなんて話もあった。自動運転になにか難しい状況になったら、運転手に「ちょっと難しいかも」と伝え、人間に委ねる。そういう協力体制。
……と、書いてきたが、もうアメリカとか中国じゃ完全無人タクシー走ってるんだよな。もうこういう話も遅いのかもしれない。
まあ、自動車についてはそうだ。それでも、「弱いロボット」との共生、協力、システムは、人間のウェル・ビーイングのために必要かと思う。すべてが「強いロボット」に委ねられて、世の中が完全自動運転になっちまって、それで人間のやる仕事がなくなって、でも、人間がそれで労働とかから解放されて、創造的に生きることができる……なんてことになるだろうか。まあ、労働から解放さるのはいいことだが。
以上。
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おれは「魂の駆動体」という言葉が好きだな。MFゴーストよな。