困っているのには弱さが足りないが、普通に生きるには性能が足りない

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寄稿いたしました。ひさびさの寄稿になります。正直、書く暇がありませんでした。年度末、忙しいの。

 

というか、今年はもうほんとうに疲れた。仕事の量は例年とあまりかわらないかもしれないが、がんがんメンタルと体力を削られた。おれは弱まっている。おそらく加齢によって。なんか三月に入ってから視力が落ちたような気もするし、なんだかもうあかん。

 

あかんといえば、部屋の中で転んで、横たわっているロードバイクのチェーンリングとスプロケットで両足のすねをザックリやったこともあった。かなり深い傷になった。けれど、なんかおれは面倒くさくて塗り薬も使わなかったし、絆創膏も貼らなかった。治りは遅くて、たぶん一生傷跡は残るだろう。

 

でも、まあ、面倒くさいや。視力が落ちたというのも、なんか夜、ライトがキラキラ見えるので目の病気かもしれない。眼科に行くべきかもしれない。それでも、行く気はしない。健康診断ももう何年も行っていないし、もうべつにどうでもいい感じが強い。

 

こういう無気力化というのは、不可逆的なものだと思う。少なくともおれについてはそう思う。おれはもとからジャガイモを拾うタイプの人間じゃなかったし、いきなり断捨離とかに目覚て丁寧な暮らしができるようになるとは思えない。セルフ・ネグレクト一直線。

 

セルフ・ネグレクトといえば、上の記事で触れなかったが、近所との交流とかそういうのもまったくないしな。単身者用のボロアパート、住んでいる貧乏人、隣の老人は夜独り言がうるさいし、たまに歌う。交流したくない。地域のつながりとかない。

 

たとえばもっとおれの病気がひどくて、訪問看護とかあったら、そこにつながりみたいなものができるのかもしれない。でも、そこまでひどくない。

 

そこまでひどくないように、見える。少なくとも、部屋の中さえ見られなければ、おれが精神障害者で頭の中もぐちゃぐちゃだと思われない。たぶん、最低限そういう格好、身だしなみで外に出ている。眉毛を整えるための小さなハサミもしょっちゅうなくすからそのたびに買って部屋の中にたくさんあるけど、それは見せない。

 

それがよくないのかもしれない。もっとボロボロの服を着て、髪とかボサボサで、ひげとかも不潔で、風呂にも入ってない感じで、こう、弱さを前面に押し出していくスタイルはどうだろう。

 

どうだろうって、そうしたところでなんのメリットがある。よくわからない。弱さを前面に押し出したところで、「弱者は助けたくない姿をしている」とかいうのになるだけだ。かといって、外面ばかりよいと、「こいつは本当に障害者なんだろうか?」と疑われるかもしれない。ヘルプマークもらおうかな。

 

まあしかし、医者には本音を話しているしな。でも、その医者にも「年度末忙しくてストレスもすごいので毎晩飲酒するようになってしまいました」と言っても、「でも、あなたはコントロールできるから」と、よくわからない信頼を得てしまっている。いや、ジャガイモは拾わないし、部屋に転がっている自転車でざっくりですよ? というか、年度末の一番いそがしいときも、半日寝込んでしまったこともある。そっちが本命か。

 

でもなあ、こんなんまだましというか、世の中的には普通に暮らせているように見えてしまう(と、自分では思っている)。これはどうかと思う。かといって、さっきの弱さを前面に押し出していくスタイルも意味がない。

 

というか、もっとすげえ困っている人も世の中にはたくさんいて、おれの悩みだかなんだかなんてお話にもならない。それもわかっとる。わかっとるが、世の中には丁寧にきちんと生きている「普通の」人もたくさんいて、それに比べるとおれは弱いな、金もないな、未来もないな、と思わざるを得ないのだ。困っているのには困り方が足りないが、普通に生きるには性能が足りない。

 

で、まあ、こんなところで愚痴だか告白だかするくらいしかない。そういうことになる。おれは疲れているし、弱まっている。おれを助けたい人がいたら、おれにアードベッグとか贈ってくれ。ガザやウクライナ、国境なき医師団への寄付のあとでいい。