ヒトラーがいなくても「ヒトラー」や「ナチス」は現れたのだろうか?

寄稿いたしました。

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こちらの本の感想です。これ、人間が失敗に至る脳、心理の構造から、こまかいエピソード、植民地政策などへの批判的な視点など、読み応えのある本。歴史好きには知っているエピソードもあると思いますが、「知らなかったな」ということがらもいくつかあるかと思います。たぶん。

 

そんで、感想はまあ上の記事を読んでください。おもに自然環境に対する「大失敗」についてピックアップしました。暴君や無能の王、人間の戦争の話なんかはわりとありきたりですが、トマス・ミジリーなんて名前も知らなかった。「有史以来、地球の大気に最も大きな影響をもたらした生命体」の異名を持つ人間なんて、まあいないっすよね。

 

でもあれだ、たとえばミジリーがいなくても有鉛ガソリンは生まれたのではないか、フロンガスが利用されるようになったんじゃないか、という思いはある。ウサギをオーストラリアに24羽輸入したやつはいたけど、ほかにも輸入していたやつはいる。でも、結局大繁殖したのはその24羽が始祖だった(と、DNAの調査からわかっている)。ホシムクドリでアメリカをたいへんなことにしたシーフェリンだって、個人でやっていたのではなく、「ヨーロッパの生き物をアメリカに輸入しよう」みたいな団体の一員だった。当時は侵略的外来植物なんて概念は影も形もなかった。だから、だれかが、と。

 

と、これ、政治の歴史のほうだとどうなんだろうね、と考えることがある。科学技術なんてのは、その発展にともなって、いろいろな積み重ねがあって、だれかがその道筋に一歩を刻む。よければエジソンになるし、悪ければミジリーになる。で、それがたとえば「民主主義の大失敗」だったヒトラーとかどうだろう、みたいな。

 

当時のドイツを取り巻く状況から、アドルフ・ヒトラーという人物がいなかったとしても、ナチスのような政権は生まれたのだろうか、と。どこまで「ナチスのような」と定義するのは難しいが、たとえばやはり第二次世界大戦が起きてしまうのは必然だったのだろうか、と。ユダヤ人などの虐殺についてはヒトラー個人の考え方が強かったといえるかもしれないが、戦争を起こすようなドイツになっていたのかどうか。

 

歴史と個人、歴史のなかの個人。もっと人間が少なくて、世界もそれぞれに狭かったころなら、ある大人物ひとりの影響は今よりも大きかったとは想像できる。でも、歴史上のなんとか大王がいなくても、世界は似たような版図になったのだろうか、どうか。それまで積みかさなってきた諸条件が、「なんとか大王的な別人」を用意することもあったのだろうか。

 

これがよくわからない。よくわからない、時の流れという非可逆なものについて、これを考えるのは無意味かもしれない。ヒトラーもスターリンも毛沢東も現れたのだし、これは変えようがない。

 

ただ、歴史が非可逆かというと、「解釈」においてはぜんぜん変わる。たとえば、先の本でもコロンブスは否定的に取り扱われていたが、少なくとも自分が子供のころは「偉人漫画」の主人公になるようなタイプだった。解釈は変わる。鎌倉幕府がいつできたの? というのだって解釈の変更だろう。ただ、あまりにも今の自分達に都合のよい解釈の変更を強引に行えば「歴史修正主義」とか言われるのだろう。

 

話が逸れた。それで、ヒトラーがいなくても「ヒトラー」は出たのだろうか。この仮定も解釈とも離れて無意味な想像だが、どうなのだろうと思う。あるいは、思想家や宗教者についても、ナザレのイエスがいなくても「キリスト教的」は存在したのか、釈迦がいなくても「仏教的」は存在したのか、ソクラテスがいなくても……。

 

この地球上にいる人類のほとんどの人間は、歴史に名を残さない。テネレの木を倒した酔っぱらい(この話も「大失敗の世界史」で読んで知った)ですら名前は伝わっていない。いや、調べりゃ出てくるかもしれんが。まあいい、ほとんどの人民だか市民だか庶民だかは、歴史的に無名に生きて、無名に死ぬ。それぞれの人生は固有のものだが、歴史にとっては「私がいなくても代わりがいるから」だろう。ヒトラーは同時代に「おれにそっくりのやつはいないな」と思ったろうが、たとえば現代日本人の多くは「おれにそっくりのやつがいるな」と思っているだろう。自分の家系に似たような家、自分に似たような経歴の持ち主。似たような生活をして、似たように生きて、似たように死ぬ。

 

そのような無名の人生も積み重ねられてきた歴史から現れたある種の必然であって、だいたいの人間は必然に生まれて死ぬ。そこに永遠の繰り返しを見ることができるかもしれないし、その繰り返しをやめたほうがいいという考え方も出てくる。ありきたりの人間が繰り返し現れることによる永遠については、またいつか書きたい。