おれとはてなブックマーク。はてなブックマークとおれ。
その根本については、過去に書いた。
2008年。
2010年。
このようなところが、おれのはてなブックマークの根本である。それは変わらない。そのうえで、このごろはてなブックマークを使い始めた人たちに、アドヴァイスをしたい。よけいなお世話かもしれないが、知っておいて損はないはずだ。そういう思いをもとに書く。
書くべきことは一つだ。
ブクマしないこともブクマのうちである。
これである。なにかホッテントリに入っている。なにか興味を惹かれた。だからといって、ブックマークする必要はない。意思表示する必要はない。べつに、「あとで読む」とか、「保留」とか書いてもいいが、書かなくてもいい。無言でスルーしてもよい。ブックマークする必要はない。
ブックマークの真髄はそこにある。ブックマークしてもしなくてもブックマークはそこにあるのだ。己がするブックーマークとそのコメント、タグ、それをネットにアップしなくとも、心のなかにとどめてもよい。むしろ、なにをコメントするか迷ったら、すすんでそうするべきなのだ。
なにかに対する判断の表明は、すぐさまに党派性に飲み込まれてしまう。判断しないことすら飲み込まれてしまう。それでもなお、無言について判断できるとする人間について否をつきつけよう。即座の判断を迫るものは悪である。人間には無限の猶予がある。すぐに判断をつきつけるものは進んで疑ってもよい。イエスともノーともいうな。イエスともノーとも言わぬものに難癖つけるものは悪だ。その心意気でいけ。
それゆえに、ブックマークに、そのコメントに迷ったなら、しなくてもよい。しないほうがよい。そのときの惑いにしたがって、ある一方に加担してしまうようなことはしなくてよい。ただでさえ、ブックマークは加害的な存在である。人がよしとしているところに、異論をつきつける可能性が高い。そんなもの、第一の発言者が望んだものでもない。
そしてそれは、第一の発言者に対する配慮だけではない。すすんではてなブックマークをしないことは、自らを守ることでもある。自分は、ここ最近のある話題について、すすんでブックマークしないことにしている。一つくらいはしてしまったかもしれないが、すすんで避けている話題がある。
それはなぜか。訴訟の可能性があるからである。自分はつとめて平穏な言葉ではてなブックマークをするようにしているが、それでもなおその発言者にとって気に障ることになるかもしれない。「自分よりもっとひどいことを書いている人がいるのに」、などというのは、自動車の速度違反で「自分よりもっと……」と言うのに等しい。そこに合理的な基準などありえない。速度違反よりありえない。そんなことなのに、訴訟ほど割に合わないことはない。金がたくさんあって暇もある人間なら、いくらでも開示と訴訟に応えれられるかもしれない。でも、おれはそういう人間ではない。そういう人間は多くない。
ならばどうするか。沈黙こそが正義である。腫物には触れるな。それをつらぬくべきだ。「この話題がはてなブックマークでは話題になっているが、自分はこの話題をブックマークしない」。そう思うことである。そして、そのこと自体が、内心での真のブックマークになっている。
ブックマークのボタンを押して、ブックマークしたと思うな。ブックマークしなかったからといって、ブックマークしなかったと思うな。
はてなブックマークの真髄とはこれである。自分が読み返すのに必要だと思った実用的なテキストにはいくらでもブックマークしてよい。それがはてなブックマークの便利というものである。ただ、意見や批判がまじったものについては、一呼吸おけ。一呼吸して、迷いがあったらブックマークするな。それこそがはてなブックマークの真髄である。
おれがあなたがたに伝えたいのはこのことである。ほかにはなにもない。これを知ったら好きな方向に歩いていけ。夕焼けに向かって歩いていけ。夕焼けの先にはなにかあるかもしれないし、なにもないかもしれない。おれの知った話ではない。

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