なにが悲しくて趣味でまで他人とかかわらなければいけないのか?

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シロクマ先生のこちらの記事を読んだ。読んでおれはこう書いた。

 

「何が悲しくて趣味の分野ですら他人と関わらなければいけないのか。それが当たり前、望ましいというのであれば、この世は本当の地獄だ」

 

 

おれが「何が悲しくて」というとき、よくつづける言葉がある。「何が悲しくて人前で歌わなくてはならないのか?」だ。すなわち、カラオケである。あるいは、小学生のころの音楽の授業もそうか。

 

というわけで、おれは何が悲しくて趣味でまで他人とかかわらなくてはならないのか? ……と、思うていどには「人嫌い・コミュニケーション嫌い」の人間である。

 

たとえばおれは、ネットゲームというのをやったことがない。一人で没頭できるゲームというもので、何が悲しくて他人とやりとりしなければいけないのか。やれと言われてもやりたくない遊びだ。遊びにも思えない。それは苦行だ。

 

 

というわけで、おれは「コミュニケーションしたくない/人付き合いが煩わしい」人間であり、「コミュニケーション能力が乏しい」人間ということになる。そんな人間の末路が書かれている。

 

④ コミュニケーション能力が乏しく、人付き合いを避け、趣味に没頭。趣味への没頭が心理的適応を助けている一面もある。ソーシャルキャピタルの不足や、趣味を続ける社会性や体力の維持が課題。

 

趣味を続けるのに社会性が必要なのかまずわからない。おれは一人で競馬をするし、競馬仲間は必要ない。おれは一人でアニメを観るし、語り合う仲間は必要ない。おれは一人でカープを応援するし、応援仲間は必要ない。ソーシャルキャピタル(ってなんだろう?)が不足して、なにが困るのかわからない。

 

むしろ、他人の目や存在、そこに費やされるコミュニケーションによる疲弊が、趣味をやめてしまう理由にすらなるのではないか。むしろ、人間関係が趣味の破綻をもたらす元凶ではないのか。そう思えてならない。

 

 

若いうちは趣味生活に埋没し、愛好家としてのクンフーを限界まで高めることが最適解と思い込みやすい時期ですが、年を取りながら界隈を眺めていて思うのは、そういう修行僧みたいな趣味生活をやってのけられること自体、若さというバフに支えられたもので、通例、そんなことを中年になってもがむしゃらに続けるのは至極困難、そうそう続けられるもんじゃないですよってことでした。

 

界隈がどこにあるのかわからないが、本当にそうなのだろうか。そういう前提というか、心持ちになれるのは、コミュニケーション強者だからではないのか。そもそもおれはそういう人間関係の土俵にのっていない。のぼることもできない、のぼるつもりもない。

 

おれももう中年だが、競馬への熱情は変わらないどころか、ますます増しているといっていい。金が無いので、掛け金はたいして変わらないが。アニメにも毎クール夢中だし、いったい趣味生活のなにが苦しくなってくるのだろうか。

 

 

と、ここで思ったのだが、先生が語っている趣味や愛好というものは、おれが考えるよりはるかにディープでイルなものなのか? おれは中学のころから興味を持った競馬にちょっと詳しいつもりでいるが、そんなのはぜんぜん大したことのない世界。種牡馬をみればそのファミリーナンバーが即座に出てくるくらい? いや、競走馬を見ればファミリーナンバーをそらんじるくらい? あるいは、カープの選手の年度ごとのスタッツを完全暗記? いやいや、あれか、競馬場にもスタジアムにも行ける限り行くみたいな行動力か。

 

そのレベルで最低限趣味者を名乗れるというのであれば、おれは趣味者でも愛好者でもない。よって、コミュニケーションの土俵というよりも、趣味の土俵にのっていないということになる。

 

考えてみれば、おれはスポーツ新聞のような人間だ。相撲をやっていれば相撲を見るし、将棋をやっていれば将棋を見る。それなりに好きな力士も棋士もいる。広く、浅い。広くて浅いやつはもうグッナイだ。Mで待ってるやつももうグッナイだ。そういう話なのか。

 

広く浅く生きる。なんならそれはそれで悪くない。おれは深く考えるのは苦手だし、難しい言葉を覚えて使って評論するほど頭もよくない。もちろん、なにか注ぎ込むほどの金もない。それはそれで悪くない。悪くないが、なにか一つを極めたい思いもあるいし、破産するほど身を焼きたい、そんなものに出会いたい気持ちもある。しかし、それはそれで一つの才能ではあろう。