いまさらながら藤田伸二突然の引退について書く。
おれはフサイチコンコルドに間に合った。フサイチコンコルドのダービーに間に合った。ザゴールドが四コーナーで大まくりを打って、見事なテレビ馬っぷりを見せたあのダービー。3着メイショウジェニエで、3連系の馬券があったらどれだけついたのだろうと思わせるダービー。
東京優駿|1996年06月02日 | 競馬データベース - netkeiba.com
しかし、ともかく、勝ったのは3戦目のフサイチコンコルドだった。その鞍上には藤田がいた。藤田も若かった。おれも若かった。若いおれがこのダービーでなにを本命にしたのか不思議と記憶はない。出走馬それぞれに記憶はあるのだが、フサイチコンコルドに持って行かれてしまったのかもしれない。
藤田伸二。なんとなく田原一派という印象はあった。なにか乱暴者の問題児という感じもあったが、一方で特別模範騎手でもあった。おれは馬柱以外の競馬界の事情に疎い。鞍上にいて買える材料にはなるか、買えない材料になるか騎手。藤田は前者だった。それで十分だった。
「恫喝逃げ」などという言葉をいつだったか2chあたりで見かけた。そういうものもあるのか、と、1回か2回ほど藤田の逃げ馬で儲けた覚えはある。平場のレースでなんという馬の話だったかはわからない。
藤田の引退メッセージ。おれには競馬界の内部のことはよくわからない。エージェントというものが問題視されたりされていなかったりあるようだが、それにも疎い。おれには知らないことが多すぎる。だから小銭を失い続ける。
ただ、藤田が競馬会の、競馬界の現状に問題があり、あるいは自分にもどうにもできないという思いを抱いているというのならば、そういうことなのだろう。それはもうそれでどうにもならないことなのだろう。おれがローレルゲレイロの馬券をうまく買えなかったのとおなじことなのだ。
後藤浩輝も佐藤哲三も藤田伸二もいなくなってしまった。ともかく、時間の流れとしてそうなってしまっている面もあるだろう。武豊は第100回日本ダービーに乗っていてもおかしくはないが、いずれにせよ時間は流れる。その流れに逆らおうとして、おれにできるのはわずかに物語ることくらいかもしれない。
……おれはシルクジャスティスの有馬記念のとき、なにを考えたか中山競馬場のゴール板前の超密集地帯にいた。シルクジャスティスが有馬記念を勝ったとき、かなり近くにいた人間といっていいだろう。だが、背が低く人混みも苦手なおれには、喧騒の中でいったいレースがどんな結果に終わったのかまるでわからなかった。しばらくして、周りの中のだれかが「シルクジャスティス!」と言って、半信半疑ながら「藤田か」と思った。生涯で最高額の単勝をマーベラスサンデーに突っ込んでいたおれは、さて、呆然としたのか、熱くなったのか、記憶の消滅には逆らえない。ただ、あの有馬記念はシルクジャスティスが勝った。記録がそう語る。鞍上には藤田伸二。