『砂の本』/『ブロディーの報告書』ホルヘ・ルイス・ボルヘス

ASIN:4087602400ASIN:4560070539

長い年月がたって、あまり何度もこの話をしたので、今はもう、事実を覚えているのか、それとも、自分の語る言葉を覚えてるだけなのか、とんと分からなくなった。―「恵みの夜」

 昨晩、古本屋で買ったボルヘスの短篇集『砂の本』をちょっとめくってみた。めくってみて、気が付いたら読みさしにしていた『ブロディーの報告書』の残りまで読みきってしまった。私はこのところ体調がすぐれず、昨日も風邪薬を飲んでいた。
 まず、『砂の本』から。これは古本屋で買い求めたものであり、上にあげたAmazonのリンク先にある文庫版ではなく、「現代の世界文学」シリーズのもの。したがって『汚辱の世界史』は含まれておらず、かわりに表紙は山本容子、中に星野美智子の版画が三葉見られる。で、手にとって気が付いたら読み終わっていたというからに、相当面白かったのかと言えば、そうとも言い切れない。自由気ままといっていいのか分からないけれど、この短篇集はどうも出来にばらつきがあった。ただ、それでも「もう一つだけ読んだら寝よう」となってしまったわけである。
 気に入ったのを挙げていくならば、まずは「会議」。これはウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』や、ルネ・ドーマルの『類推の山』をちょっと思い起こすような、秘密結社的雰囲気の作品。もちろん、それらに比べれば短いのだけれど、その怪しい密度は言うまでもなく高い。「恵みの夜」は作者自身が「無垢、激烈、高揚」と述べている一品で、まさにそんな感じだ。「鏡と仮面」、「ウンドル」はさまざまな詩人や作家がときに主題にする「究極の言葉」について。前者のセリフ回しなんかは真似したくなる。その他、古い博物誌や宗教史の一部を掘り起こしてきた風(高橋源一郎が『惑星P-13の秘密』あたりでやっていたっけ)の奇譚や、SF風のものなど、バラエティに富んでいる。
 そして、『ブロディーの報告書』。こちらも口述筆記による短篇集。前半を読んだのはずいぶん前のことと思う。それでも印象に残っていたのは、一人の女をめぐる兄弟の話「じゃま者」や、ガルシア=マルケス的南米風であり、何やら中国の古典風でもある「別の争い」など。昨夜読んだ「マルコ福音書」も、短篇ミステリ風に楽しめた。
 私はボルヘスについて『伝奇集』(ASIN:4003279212←文庫版の表紙をはじめて見たけど、なんか怖いな)と『幻獣事典』(ASIN/479491265X)を読んでいたのだけれど、この二冊を読んでまた何か別の一面、いや他面性を見る思いであった。衒学的なの、リアリズム的なの、石川淳風「ウソの文学」的なの……、色んな引きだしがあるのね、と。そして、『幻獣事典』の訳者である柳瀬尚紀の本にあった言葉だけれど、「何を書くのか」ではなく、「どのように書くのか」寄りの作家かな、と。私はどうも、後者寄りの作家が好きなのだ。さまざまな趣向や技巧を凝らし、なおかつ一貫したスタイルがある、というような。
 ところで、この二冊の訳者あとがきに気になる記述があった。片方はボルヘス作品の英語版について、作者との共同作業で作り上げられた名訳としており、もう片方はその英語版と英訳者を「作者の了承を得た上かもしれないが」と前置きしながら、痛烈に批判しているのである。ここらあたりの二人の翻訳者による論争めいたもの、これもまさにボルヘスが喜びそうな話ではありませんか。