便利なことが人にとっていいことなのか

 技術の進歩化は人類の発展である。人間が火を熾して、衣を纏った時から始まったのが、科学技術の発展と利便性の追求なのであり、原始人ばかりでなく、我々の暮らすこの時代も急速な発展がますます伸びていくのが目に見える。ちょっと前までは工業の機械化で、ロボット社会が訪れるのではないかという未来像なのであったが、昨今ではIT化や情報化とも言われて、もはや私のような老骨にはサイエンスフィクションの作品の中に身を置いた、時代をタイムスリップしてしまった主人公のような気持ちにもなるのはやむを得ぬことと言えるのでは無いでしょうか。
 しかし、多くの賢明な科学者や学者が述べている様に、必ずしも科学や技術の進歩は人間に幸せばかりを与えるものでは無いと言うことが、科学汚染、公害、大量破壊兵器による不幸な戦争の被害者の造出などといった悲劇が大きく証明しているところである。そんな暮らしの中で人々は人と人との思いやりも繋がり(連帯感)などを失っていった。水道が整備されてしまっては、「あさがおに 釣瓶取られて もらい水」という近所の人々とのさわやかなふれあいが失われるのである。簡単にガスや電気から火が出てくることで、薪や炭を使うこともなくなったことから、私たちの暮らしが自然等によって支えられているという生命のサイクルから目をふさがれる結果に陥ってることに、私は警鐘を鳴らしたいと思うのです。
 私は先日、最新の電気釜を買いました。最近では無洗米などという、米をとぐと言ったあたりまえの日常行為さえ利便性の名の下に切り捨てると言った米もあり、米を釜に入れて水を注ぎ、スイッチを押せばそれで炊飯が完了してしまうのだ。竃の火を熾す等と言う行為は無くなり、これで世の中の母親達が愛情のあるご飯を作れるとはとても思えない。スーパーに行けば工業製品のようなレトルト食品がずらりと並んで、あなた方は機械なのかと言いたい。本当にお百姓さんの作ったお米や野菜に感謝の気持ちがあるのですかと。子どもは肉を工場で作ったと言い、牛や豚の姿を知らないという。本当にこんな事で良いのだろうか。少年犯罪の増加やゲーム脳フィギュア萌え族と言った社会の弊害的存在の増加の原因の大きなものの一つが、人間の血肉となる食品にあるのではないかと思うのである。食品への感謝を喚起することが、自信を失っている日本再興の要石である。
 さて、炊飯器には予約炊飯機能があり、例えば、朝会社に出て夜帰ると、夜にはお米が炊けており、すぐに炊きたてのごはんが食べられるという。しかし、ついつい仕事が遅くなって帰れなくなってしまうのが悲しいサラリーマンの常である。するとどうなるか、炊飯器は炊けたご飯を微妙に加熱して、保温するのだ。しかし、それが文明の落とし穴である。保温された米には嫌な臭いが付く。たった三時間の保温でもです。私は声を大にして言いたい。そんな臭い米が食えるか!、と。IT化社会というのだから、インターネット越しに炊飯器に命令を出すような装置くらいもうできているのでしょう。もう帰れそうだと思ったら炊飯命令を出す。そんな機能のものは、桜木町のトポスですぐに買えなきゃいけない。全くもって技術の進歩が足りない。世の中の科学者・技術者諸君は一層の努力をすべきである。