流れよ我が涙、と昭和のいる・こいるは言った

 俺が費用対効果の上で一等に評価する食べ物は、見切り品になったトマトだ。スーパーが、「もう少しで売り物にならない」と判断するところの熟れきったトマト。安い上に最高においしい。こんなに素敵な食べ物はない。そんな幸福な気持ちで今朝もトマトを切った。朝からまな板をトマト汁で染めるのも嫌なので、左手で持ったまま切った。阿呆のすることだ、朝から台所を血で染めそうになった。
 これで思い出したのが、先日の25時間テレビにおける昭和のいる・こいるのネタであった。昭和のいる・こいるといえば、「ハイハイハイ」「そうそうそう」といった早口でいい加減な相づちがたまらない漫才師。25時間テレビでは、東西対抗東の大将として出てきた。いつもの調子で漫才は進み、ボケの方がこんな話を披露する。自分の娘もそそっかしく、手の平に載せた豆腐を思いっきり包丁切ってしまって、みそ汁が血まみれになった、と。言うまでもなく、ネタでありボケだ。しかし、若い女性を中心とした観客の反応はどうだったか。そこで起きたの笑いではなく、「えぇー」という引きのさざ波、マジのドンびき。この反応を見て取ったのか、単に時間が来たのかわからぬが、のいるこいるはここで話を強引に終わりにしてしまった。
 さて、それを見ていた俺はどう思ったか。「笑うところだろうに」と思ったのか。否、俺も「うへぇ」と思ったのだ。そう、ボケとしてはリアリティがありすぎた。笑おうにも生身の手触りがありすぎたのだ。そして、その時の俺の反応は間違っていなかった。今朝の俺が時を前後して証明してみせたのだから、いかにベテラン漫才師相手とはいえ、この点についてははっきり主張できるところである。いや、主張する必要があるかどうかは知らないが。