有罪と無罪の間、あるいはこれが無罪モラトリアム

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060215-00000204-yom-soci
男性教諭、2審も無罪…知的障害女児へのわいせつ事件

判決は、女児らの「わいせつ被害を受けた」との供述については、供述に一貫性があることなどから、「疑問を差し挟む余地がないようにも思われる」と指摘。しかし、起訴事実となった被害については、「信用性に疑問が残る」とした。

 あるサイトで知ったニュース。知的障害女児へのわいせつ事件の判決である。判決は無罪だ。無罪だけれど、わいせつ被害自体には「疑問を差し挟む余地がないようにも思われる」。しかし、起訴事実たるメーンの件に関してあやふや故に、無罪。疑わしきは罰せず、ばかりでなく、まあ日時の確定やらなんやら、法の原理が働いた上でのものだろう。
 しかし、ここで疑問に思うのは判決文でこういう指摘をするのはアリなのか、ということだ。有罪なら有罪、無罪なら無罪。関係ない事実について述べる必要があるのか、ということ。もしもこの被告が、起訴事実以外に関しても一切わいせつの事実が無かったならば、これは裁判官による「雲助発言」(http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kumosuke.htm)よりももっと大きな誹謗中傷じゃないのか、と。あるいはこれは「司法のしゃべりすぎ」ってやつなのかな、とか(ASIN:4106101033……いつか読んでみたいと思うのでメモ)。
 というわけで、「被害者側の言い分は正しいし、できれば罰したいんだけど、法律の仕組みってものがねぇ……」というようなどっちつかずの態度にしか見えなかったんだけれど、いったいこれはどうなんだろう。あと、「2003年5月と7月、教室内で、当時9歳と11歳の女子児童の胸や陰部を触るなど」はしなかったけれど、「疑問を差し挟む余地がない」わいせつ野郎と認定されて無罪放免となったこの教諭は、この後はどこでどうやって生きていくのだろう。どこかマスコミ、後追いしてほしい。