物悲しい夕暮れ、君は大相撲中継の声を聞くか?

 今、残業しつつラジオを聞いていたらいたら、金剛地武志の番組のゲストに、桜塚やっくんが出てきた。
 桜塚やっくんといえば、エンタの神様だ。俺は最近、エンタの神様を見ていると、なぜか不安になってくる。何らかの物悲しさを覚える。
 それは、そう、小学校から帰ってきて、夕刻、たまたま家に誰もいなくて、一人でテレビをつけても、再放送の時代劇や、興味の無い大相撲中継しかやっていなくて、この世に一人取り残されたような気になった、あのときの気持ちになる。テレビの中の現実感がまるでなく、はやく生放送のニュースがはじまってほしいと思う、あのときの気持ちだ(どこかから聞こえる大相撲中継の物悲しさは、電気グルーヴが歌ったっていたっけ)。
 なぜだろう、なぜかエンタには現実感が薄い。司会者といっても、出演者と絡みなく紹介を言うだけ。あとは、顔も名前もよく知らない、エンタ以外では見かけない人たちが出てきては、淡々とあるあるネタを披露する。客席は笑う。また奇妙な扮装をした次の芸人が出てくる。あるあるネタを披露する。俺だってまったくつまらなかったのなら見やしない。それに、他でも見る芸人がコントをしたりもする。しかし、悲しい。どこか世界に置き去りになっているような気になる。映ってるものが別世界のように思える。
 ……官製のネタの多くはあるあるネタであり、多少の毒を含んだ風刺や自虐も含まれる。ネタの書き手は同一であるが、国民を飽きさせないように、さまざまな衣装を着た芸人が、それぞれのスタイルで披露する。都合の悪い箇所に関しては、放送前に厳重な編集が施される……。
 などという妄想を抱いてしまう。これは、皮肉や当てこすりではなく、エンタに感じる俺の不安感のなすところのものである。不安感をもたらすのは、なんらかのノスタルジー、センチメンタルな夕暮れ、再放送だけのテレビ、それらに抱いた幼き日の妄想。
 たとえば、ネタ勝負から遠ざかりつつある笑いの金メダル。あの番組はなんら不安感を覚えさせない。バラエティ部分も悪くないように思えるし、あれは安心できるテレビだ。あちらを見ていればよろしい。それでもなお、やはり、何とはなしに俺がエンタを見てしまうのは、何か妙なものにとらわれているせいだろうか。夕暮れ、遠くから豆腐屋のラッパが響く、その頃に。