http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060824k0000m040165000c.html
直木賞作家の坂東眞砂子さん(48)が日本経済新聞に寄せたエッセーで、自身の飼い猫が産んだ子猫を野良猫対策として殺していることを告白し、波紋を広げている。坂東さんはフランス領のタヒチ島在住で、事実ならフランスの刑法に抵触する可能性もある。
★この件に関して先日書いたもの→http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20060821#p5
俺はこの件に関して俺が先日書いたもので俺が述べているような感想を俺は抱いている。そして、この続報。この続報を読んだところで俺のこの件に関する意見は変わらない。ただ、一部わかったことがあった。この件についてこう書いた箇所がある。
飼っている動物を間引く、なんていうことは当たり前に行われてきた行為だろうと思う。動物愛護なんていう近代的発想以前の話である。今でも、年代や住む土地によってはそのあたり無頓着かもしれない。あるいは、タヒチもそうなのかもしれない。
というわけで、俺はタヒチを、現代日本などからかけ離れた南の楽園程度に考えていたのである。まあ、日本から一度も出たことが無く、おそらく一生そうであろう底辺層なので仕方がない。グアムとタヒチとハワイの違いも説明できない。まあともかく、法に反するのなら完全にアウトだ、坂東さん。
何を殺すとアウトで、何を殺すのはセーフか。これは難しい話だ。蚊やゴキブリを平気で殺して、ネコ殺しを糾弾できるのか、という疑問を持つ子供だっているかもしれない。クジラ殺しをめぐっては、文化と文化の間に深くて暗い川が流れているくらいだ。
それでもいえるのは、命の重さは平等ではないということだ。たまに反捕鯨団体に対する批判で、「ウシを喰うのはよくて、クジラがだめなのは矛盾している」というようなものもあるけど、それは的外れだ。だって、人によってはウシとクジラは完全に別物なんだもの。それを認めなければ、蚊をたたく人間が、坂東さんの子猫殺しを非難できなくなる。
では、その平等でない価値、価値の大小は何が決めるのか。これに対する絶対的な答えはない。まさに人それぞれの価値観、好き嫌いでしかない。
<閑話>
人が他の生命を害さずにはいきておれない存在であること。この生命そのものの不合理さ、矛盾に対する救いとして宗教があったのかもしれない。神が人を他の動物に対して特別な存在としてつくった。他の動物は食われるべくしてつくられた、とか。あるいは、自分たちも明日(来世)には食卓に並ぶ側の存在かもしれないとする輪廻の思想だとか。あるいは動物には自意識がなく、人間と同じ生命とはできないなんていう哲学的な切り口もあるかもしれない。以上、いずれも俺の浅い浅い知識からひり出された印象にすぎないが。
</閑話>
そして、人々の持つ統計傾向だって場所や時代によってどんどん変わってくるものだ。しかし、だからといって人それぞれというわけにはいかない。人間が絶対的な答えや真理に行きつくことは不可能なのだから(科学や数学は別かもしれないが、その場合人間はあくまで外の観察者に過ぎないだろう)、暫定的に害の少ない方に向かって、その場その場でしのいでいくしかない。
その結果の一つ、妥協と便宜の一つが法律だ。子猫殺しは嫌だ、気分が悪いという人が多く、それがルールになれば、それに従うべきだ(ここまできて、やっと「べき」が使える問題だと思う)。子猫殺しを「社会に対する責任」と述べる以上、この矛盾は彼女の心の中の話では済まされない。ただ、それでも反社会的存在としての自分を引き受けて殺し続けるというのならば、それまでの話だ。俺はそう考える。
というわけで、やはり何か琴線に触れるところのある話だな、これは。でも、実際問題としては、法律という便宜上のルールを引き合いにだしてしか、「殺すべきではない」と言えないように思える。その先の、生命や倫理、正義の話となると、人間存在のさまざまな矛盾と不合理が絡み合った問題となって、人類の歴史と同じくらい長い議論になるだろう。だから、「それは気分が悪い」という感情論による非難と、それが積み重なって多数決で決まった法律。とりあえず、便宜上、それで一つの、とりあえずの答え、それでいいじゃない。もしも俺が小学生に疑問をぶつけられたら、そう答えるし、その先の話はオナニーのあと虚無感に襲われたときに考えてみたら、って言うしかないのである。